劉焉の独立構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 08:07 UTC 版)
劉焉は益州に入ると、南陽や三輔の諸郡から争乱を避けて蜀に移住していた民衆数万人から兵士を選抜して自分の支配下に組み入れ、「東州兵」と号した。そしてこの兵力を背景にして劉焉は綿竹を居城にして益州の在地豪族を恩賞を与えるなどして懐柔した。 劉焉は中央政権からの独立構想を目論んでおり、中央と益州を結ぶ漢中郡に五斗米道の教祖である張魯を派遣した。張魯の父の張修は黄巾の乱のときに漢中郡で反乱を起こしており、この地は五斗米道の信者が多かったからである。張魯は漢中郡太守の蘇固を攻撃して征服し、蜀と中央の交通を絶った。 そして劉焉はこれまでの懐柔策を改めて強攻策に切り替え、服従しないまたは反抗的な豪族の王咸・李権らを処刑した。自らの入蜀を迎えた賈龍も、反乱を起こしたとして死刑にした。
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