不幸の連続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:56 UTC 版)
劉焉の子の内、三男の劉瑁だけが劉焉の手元におり、長男・次男・四男は長安におり、献帝に仕えていた。後に献帝は劉焉を宥めるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞き入れずに劉璋を二度と都に戻さなかった。 征西将軍の馬騰は郿に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、董卓没後に実力者となっていた李傕がいる長安を襲撃する計画を立てていた。しかし、計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した。李傕は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを討ち取り、弟の劉誕も捕虜にされて処刑された。 議郎の龐羲は、先祖代々劉焉の家と交際があったため、劉焉の孫を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕える事になった。 この時、落雷によって居城としていた綿竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の成都に遷らざるを得なくなった。 興平元年(194年)、劉焉は、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。 実力者であった趙韙の思惑で、温仁(温厚かつ仁徳の有る人)との評判であった劉璋が後を継ぐ事になった。(恐らくは、強気な人間でなく傀儡にし易いということであろう。加えて、長子継承の通念から、長子以外の子が教育を疎かにされるケースが日本でもあったように、もともと末子であった彼が、事業継承を期待されていたかどうかも疑問であり、政治経済の切り回し等がそもそも不得手だった可能性があるかもしれない)趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた。 張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。
※この「不幸の連続」の解説は、「劉焉」の解説の一部です。
「不幸の連続」を含む「劉焉」の記事については、「劉焉」の概要を参照ください。
- 不幸の連続のページへのリンク