熟練した策略家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:36 UTC 版)
孝廉に推挙され、廮陶県長・柏人県令に任じられた。その後袁紹の参軍事となった。 界橋の戦いの時、鉅鹿太守の李邵や郡の上級官吏は、勢いの盛んな公孫瓚に味方しようとした。董昭は袁紹の命令で鉅鹿太守を兼ね、計略を用いて鉅鹿郡を平定し、袁紹に称賛された。魏郡でも反乱が起きて太守の栗攀が殺害され、またしても董昭は袁紹の命令で魏郡太守を兼ねた。魏郡には数万の賊がいたが、董昭は離間計を用いてこれを平定した。 弟が張邈の幕下であったため、張邈と不仲になった袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。董昭は出奔し朝廷に仕えようとしたが、張楊に引き止められた。当時兗州を治めていた曹操は張楊に使者を送り、長安へ行くため領内の通行を認めてもらおうとしたが、張楊は許さなかった。董昭は曹操の才能を認めていたため、誼を通じておくよう張楊に進言した。張楊はこれを受け入れ、上表して曹操を推薦した。 196年、献帝が長安を脱出し東遷した際、董昭は朝廷に赴き議郎に任命された。張楊・韓暹・楊奉・董承の諸将が不仲になると、楊奉を唆し曹操を頼るよう勧め、曹操に鎮東将軍・費亭侯を得させた。この時、自身も符節令に任じられた。曹操が洛陽に到着すると、董昭は曹操に楊奉を騙して許に遷都するよう進言し、献帝を許都に移す策略を提案した。曹操はその策を採用し、楊奉が遅参している間に献帝を許都に移した。献帝が曹操の庇護下に置かれると曹操に仕え、198年には河南尹となった。
※この「熟練した策略家」の解説は、「董昭」の解説の一部です。
「熟練した策略家」を含む「董昭」の記事については、「董昭」の概要を参照ください。
- 熟練した策略家のページへのリンク