史記における経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:25 UTC 版)
『中山世鑑』によると、利勇は天孫氏25代のとき、幼少期より取り立てられて寵愛され、壮年になると国の政治を任され権威をほしいままにしたという。それが高じて、主君から王位を奪うという野心が芽生え、ある日、主君に薬と偽った毒入りの酒を飲ませて殺害し、自ら中山王と称した。この時、浦添按司の尊敦(後の舜天)は、この出来事を知り、義兵を起こし利勇のところへ向かった。尊敦率いる軍の奇襲により、城内の兵士は慌てふためき、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、中には降参する者もいた。利勇は戦う姿勢を見せたが、尊敦の軍勢を抑えることができず、妻子を刺し殺し、自らの腹を切り絶命した。そして、尊敦は民衆からの推薦により、王となり、舜天王統を築いたとされる。 『中山世譜』によれば、琉球最初の王統とされる天孫氏は、丙午の年に25代まで続いたと記している。東恩納寛惇は、その「丙午」の年は舜天が即位した1187年(淳煕14年)の前年にあたるとし、すなわち1186年(淳煕13年)を天孫氏が滅亡した年としたかと述べている。
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