史記との差異とは? わかりやすく解説

史記(原典)との差異

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:13 UTC 版)

史記 (横山光輝の漫画)」の記事における「史記原典)との差異」の解説

省略非常に多いそもそも原典はあくまで歴史書なので、相当な整理行わない限り小説化漫画化不可能である)ものの、実際に描かれ場面については司馬遷の『史記』にかなり忠実と言えるが、細かな差異随所見られる。 (横山版)呉越戦いで臥薪嘗胆」の故事触れられるが、「臥薪」は『十八史略』に記述され、「嘗胆」と合わせて一つ故事成語になったものであり、作中ナレーションでも触れられている。(司馬遷記述されるのは、「嘗胆」のエピソードのみである。 (横山版)衛の呉起が、君主元公仕えていた頃、斉が攻めた元公疑い晴らすため、斉出身の妻を離縁し帰国させた。ただ、斉との合戦の後、「呉起は妻を殺して将軍になった」という不穏な噂が流れる。(司馬遷呉起大夫讒言聞き、名誉を守るために妻を殺害して二心がないことを示した。 (横山版)孫臏(前名は孫濱としている)が龐涓桂陵の戦いで、裏をかいて散々にこれを敗った。龐涓孫臏を魏で殺しておくべきであった悔やんだ。(司馬遷桂陵の戦い孫臏鮮やかな戦功挙げたが、ここで龐涓敗戦したとされているのは『孫臏兵法』の記述であり、『史記』には誰が敵将であった記述がない(逆に、『孫臏兵法』には馬陵の戦いに関する記述がない)。 (横山版)商鞅が魏の宰相の公叔痤(中国語版)によって恵王推挙するときや、秦の宦官の景監(中国語版)によって孝公推挙した際に「商鞅は衛の側室公子身分持ち毛並みがいい」と述べている。(司馬遷上記のように商鞅が衛の側室公子とは記されておらず、衛の公室分家の子であると記されており、「公子ではなく公孫正しい。 (横山版)孝公逝去して子の恵文王が立つと商鞅追い詰められて、魏に亡命するも、かつて親交があった魏の公子卬(中国語版)を欺いた過去があるために、秦に強制送還された。今度北方の鄭に逃亡したが、商鞅恨みを持つ恵文王追撃執拗であったために、黽池捕獲された。商鞅そのまま車裂きの刑受けて無残な最期を遂げた。(司馬遷上記同様に商鞅逃亡先の魏から強制送還され、領地戻って家臣とともに領内の兵を集めて北方鄭県攻撃した。しかし、恵文王軍勢派遣してこれを迎え討って黽池商鞅戦死した恵文王の命で商鞅遺体車裂きにされ曳き回しされた。 (横山版)斉の湣王蘇代命じて燕を内乱状態にさせた。(司馬遷湣王は燕が内乱態となったのに乗じて軍を進めただけで、内乱状態に陥らせたという記述確認できない。 (横山版)秦王政他国追放令出したために投獄された韓の公子韓非に対して同門李斯拷問を受け生き恥を晒すであれば自害したほうがよいとして毒薬渡した。(司馬遷李斯韓非才能妬んで疎んじていたために、韓非自害させている。 (横山版)秦王政が、将軍王翦命じて項燕壊滅して滅ぼしたとき、最後の王負芻捕らえて、これを処刑した。(司馬遷上記のように王翦は、蒙武とともに滅ぼして負芻捕虜にしたことは述べられているが、以降のことは何も記されていない。 (横山版)陳平農業精を出す兄の陳伯の目を盗んで、その兄嫁密通した。(司馬遷陳平兄嫁家事手伝わない義弟悪口をある人物言ったため、それを聞いた兄の陳伯は怒って妻と離縁した実際劉邦武将たちが新参者陳平を「陳平兄嫁密通した噂がある」と中傷した記述がある)。 (横山版)陳余韓信との井陘の戦いにて、敗れた挙句に漢軍の武将討ち取られた。また、趙王歇捕虜にされた。(司馬遷陳余井陘の戦いにて韓信率いる漢軍に撃ち破られた末に韓信配下張蒼捕虜となり、泜水のほとりで処刑された。同時に趙王歇逃げ出すも、襄国現在の河北省邢台市邢台県)で捕らわれて処刑された。 (横山版)斉を平定し韓信蒯通進言で、斉の「仮王」を認めるための使者として派遣されたのが周叔(『通俗漢楚軍談』のみの人物)であり、劉邦韓信のこの行為激怒したが、張良陳平に足を踏まれながら宥められて、渋々とこれを認めた。(司馬遷この際使者姓名触れられていない。 (横山版)垓下の戦い追い詰められ項羽寵愛する虞美人置いてこうとするが、それに対し虞美人項羽の「垓下の歌」に歌を返したのち、「大王さまの再起願い足手まといにならぬことが虞の恩返し…」と言い剣舞のために受け取った剣で自害し果てる。これは『通俗漢楚軍談』にあるエピソードで、ナレーションでも触れられている。(司馬遷)「垓下の歌」を歌う場面で虞美人登場するが、その顛末については全く触れられていない。 (横山版)恵帝崩御後呂后が呂一族王として封建することを建議した際に右丞相王陵がこれに反対した。しばらくして王陵従者が「呂后右丞相宴会招待して毒殺する噂がある」と忠告した。これを聞いた王陵身の危険感じて、病と称して呂后申請して右丞相辞任して領地戻った。代わって陳平右丞相となった。(司馬遷上記通り王陵呂氏一族封建反対した。王陵に対して腹を立てた呂后建前昇進名目王陵太傅任じるが、実際に名目上官職であった呂后の対応に激怒した王陵は病と称して自邸引き籠って参内さえしなかった。 (横山版)呂后亡きあとに、漢の皇族である朱虚劉章劉邦の孫)が兄の斉の哀王劉襄に、呂氏漢王朝簒奪計画立てていることを知らせた哀王打倒呂氏建議した際に斉の宰相異論述べたため、激怒した哀王宰相呂氏内通していると疑って自決用の剣を差し出して無理やり宰相自害させた。(司馬遷上記同様に弟の知らせ哀王母方叔父の駟鈞、郎中令の祝午、中尉魏勃らを召し出して打倒呂氏建議した。これを聞いた呂后派遣した目付である斉の宰相召平は軍勢率いて王宮包囲した。これを見た魏勃は召平を欺いて、召平の宰相邸を取り囲んで召平を自害追い込んだ。 (横山版)淮南厲王劉長が「呂氏によって、兄弟次々と死に追いつめられてたため、兄に代わって一族の仇を討つ」と称して、辟陽侯審食其斬り捨てた。これを聞いた袁盎文帝諌めたが、文帝淮南厲王が弟という理由でこれを不問にした。しばらくして柴武太子謀反企んだことが露見され、再び不問とされる思い正直に白状した。しかし、文帝は弟を蜀に流罪とした。淮南厲王はその途中の雍で病死した。(司馬遷淮南厲王生母美人がかつて趙王張敖側室であり、岳父劉邦差し出された。しかし、張敖家臣である貫高らの謀反連座によって、彼女は河内投獄された。厲王母方叔父の趙兼(趙美人の弟、周陽由の父)は辟陽侯審食其通じて呂后嘆願した呂后はこれを無視し審食其そのまま放置した。そのため牢獄にいた趙美人劉長産んで自殺した呂后養われ成長した劉長は母の自殺審食其原因があると判断してある日審食其をたずね、鉄鎚打ち従者の魏敬がその首を刎ねて、兄の文帝のもとに向かって肌脱ぎになって謝罪し文帝はこれを不問にした。あとは上記通り柴武太子奇と謀反企み露見されて朝廷大臣たちは劉長処刑求めたが、文帝が弟をかばったために蜀に流罪となった護送中に役人たちは劉長恐れの扉を開こうとしなかったため、怒った劉長絶食してついに餓死した。 (横山版)晁錯厳格な法令反発して呉楚七国の乱起こした宗室である呉王の劉濞に対して景帝袁盎進言によって止むを得ずに、晁錯参内前に誅殺して、袁盎を呉王のもとに勅使として派遣した。呉王に謁見した袁盎はかえって帰順勧められて、困惑して返事保留したその夜袁盎陣営逃亡した。(司馬遷上記通りに、袁盎進言晁錯腰斬刑処した景帝は、袁盎太常任じて宗正である徳頃侯劉通劉濞の甥)とともに勅使として、呉の陣営派遣した。しかし、呉王は甥の劉通のみ謁見許して袁盎に対して目通りをさせずに抑留した。ある日夜に呉の宰相時代助けたことのある人物袁盎訪ねて逃亡するように勧められて、その好意受けた袁盎その手引きにより陣営逃亡した。 (横山版)呉王の劉濞が膠西王酒席で「漢を滅ぼした暁には、呉は東方を、膠西は西方支配する方針よろしゅうござろうか?」と盃を交わした。(司馬遷上記のような記述はなく、前述した袁盎勅使として、劉濞のもと派遣されたときに「私はすでに東の皇帝となっている。今さら誰に拝謁するのだ」と記されているのみである。 (横山版)南陽太守寧成身辺調査したため寧成南陽より逃亡行方知れずとなっている。(司馬遷南陽赴任してきた新し太守義縦函谷関都尉寧成一族調べて取り潰し有罪となった寧成は(函谷関土豪である)孔氏・暴氏の一族とともに逃亡した。 (横山版)南越鎮圧した前漢勅命で、司馬遷宣撫視察役目終えた後に、武帝報告に向かう途中で親友陳達から、父の司馬談危篤状態であることを知らされる。(司馬遷)『史記』ではそのような記述はなく、司馬遷武帝から西南奉使任じられて、巡遊する武帝付き従った事実があるのみである。その後役目終えた司馬遷は父の臨終立ち会った

※この「史記(原典)との差異」の解説は、「史記 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「史記(原典)との差異」を含む「史記 (横山光輝の漫画)」の記事については、「史記 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「史記との差異」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

史記との差異のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



史記との差異のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの史記 (横山光輝の漫画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS