史記の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:00 UTC 版)
老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)。楚の苦県(現在の河南省周口市鹿邑県)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜(中国語版)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。 『史記』には続けて、 4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳 ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないためこれらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 7.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家於齊焉。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。
※この「史記の記述」の解説は、「老子」の解説の一部です。
「史記の記述」を含む「老子」の記事については、「老子」の概要を参照ください。
史記の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/27 08:16 UTC 版)
大鮫魚に関するもっとも古い記録は、『史記』秦始皇本紀の始皇帝37年(紀元前210年)の箇所にある。始皇帝に神薬を求められながら、何年たっても得られなかった方士徐巿(別の箇所に徐福と書かれる)は、蓬莱の薬を得られないのは大鮫魚に妨げられるからだと嘘を言い、射撃の名手に連弩で射させるよう求めた。その時巡幸中の始皇帝は、人の姿をした海神と戦う夢を見た。皇帝に問われた占夢博士は、水神を見ることはできず、大魚・蛟竜を兆候とすると言い、この悪神を除けば善神が来るだろうと答えた。始皇帝は船に乗ってみずから連弩を持ち、之罘で大魚を発見して射殺した。始皇帝はしばらくして病を発して死んだ。。
※この「史記の記述」の解説は、「大鮫魚」の解説の一部です。
「史記の記述」を含む「大鮫魚」の記事については、「大鮫魚」の概要を参照ください。
史記の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 01:54 UTC 版)
『史記』「五帝本紀」は、嚳の事績の末尾に簡単に触れる。それによれば、摯は嚳が娵訾氏の娘との間にもうけた子である。嚳の死後帝になったが「不善」、つまりよくなかったという。摯が死ぬと、弟の放勲(堯)が帝になった。
※この「史記の記述」の解説は、「摯」の解説の一部です。
「史記の記述」を含む「摯」の記事については、「摯」の概要を参照ください。
- 史記の記述のページへのリンク