尹喜とは? わかりやすく解説

尹喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/03 08:22 UTC 版)

『仙佛奇蹤』尹喜

尹 喜(いん き)は、中国春秋時代の伝説上の人物[1][2]老子から『老子道徳経』を授かった関所の長官[1]道家の思想家。

関尹(かんいん)、関令尹喜(かんれいいんき)などとも呼ばれる。道教では文始先生(ぶんしせんせい)、無上真人(むじょうしんじん)とも尊称される[1][2]

著作として『関尹子』(かんいんし)またの名を『文始真経』(ぶんししんきょう[3])が現存するが、末以降の偽書とされる[4]

人物

史記』老子伝によれば、老子を去って隠遁しようとする道中、関所函谷関[1]、一説には散関中国語版[3][5])にさしかかった。そこで関令尹喜(関所の長官の尹喜[1])から、隠遁の前に私に書物を授けて欲しいと言われた。老子は書物(老子道徳経)を書き与え関所を去った。『史記』には関令尹喜についてこれ以上の記載は無い。

荘子』達生篇には、関尹が思想家として登場し、列子との道家的な対話が描かれる。『荘子』天下篇では、「墨翟禽滑釐中国語版」学派、「宋銒尹文」学派、「彭蒙中国語版田駢慎到」学派と並んで「関尹・老聃」学派の思想が伝えられる。『呂氏春秋』不二篇では、老子の「貴柔」、孔子の「貴仁」などに対し、関尹は「貴清」を説いたとされる。『列子』にも度々登場する。

「関令尹喜」と思想家の「関尹」は別人だった可能性、あるいは思想家の「関尹」が先に存在して「関令尹喜」の物語が後から作られた可能性もある[6]

成玄英は「関令尹喜」と「関尹」を同一人物とした上で「姓は尹、名は喜、は公度」としている[7]。一方、兪樾らは「関令尹」「関尹」は役職名であり「尹」は姓でないとしている[7]。他方、郭沫若は「関尹」を稷下の学士の「環淵中国語版」が訛ったものとし[8]、「喜」を名でなく「喜んで(老子に出会って喜んで)」と解釈している[7]

後世の受容

後漢末以降、「老子化胡説」(老子は関所を出たのち西域仏教を創始したという説)が生まれると、尹喜が老子に同行したという説も生まれた[1]。すなわち、尹喜と老子が成都青羊肆中国語版で再会したのち、ともに人を教化したという物語が、『三洞珠囊中国語版』巻9で『老子化胡経』と並んで引かれる『文始先生無上真人関令内伝』佚文に伝えられる[9][1]。『広弘明集』にも、同書と見られる『文始伝』の佚文がある[10]

道教経典の『西昇経中国語版』(老子が尹喜に授けたもう一つの書物とされる)や[11][12]、『列仙伝』尹喜伝も[1]、老子化胡説の影響下に成立した。『神仙伝』などに登場する尹軌漢文版は、尹喜の従弟にあたる[1]

元代の『玄元十子図』『玄品録』などには、尹喜が『関尹子』を書いたのち、関所(散関中国語版)から出て、青羊肆で老子と再会し「文始先生」の名を賜った、という物語も見られる[3]

西安市楼観台中国語版では、老子像の左右に尹喜像と徐甲像が従祀されている[1]。道教の一派に文始派中国語版がある。

魯迅の短編小説『出関中国語版』(『故事新編中国語版』所収)の登場人物でもある[13]

『関尹子』

現行本『関尹子中国語版』またの名を『文始真経』は、一般に五代以降の偽書とされる[4]

全1巻9篇からなる。内容は神仙方技・仏教・儒教が混在している[4]。「即」をコピュラとして用いるなど、先秦らしくない文体で書かれている[14]

目録学においては、『漢書芸文志道家者流に『関尹子』9篇が著録されているが、『隋書経籍志、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志には著録されていない[3]。『抱朴子』遐覽篇には『文始先生経』の名が見える[3]。『直斎書録解題』は、劉向葛洪の序が付された『関尹子』9巻を著録した上で偽書としている[3]。以降も多くの偽書説がある[3]

注釈書に、『道蔵』所収の宋の陳顕微『文始経言外旨』、杜道堅中国語版『関尹子闡玄』、元の牛道淳『文始真経注』などがある[3]和刻本江戸時代元文5年(1740年)に出ている[15]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 道教事典 1994, p. 18f.
  2. ^ a b 中国文化史大事典 2013, p. 24.
  3. ^ a b c d e f g h 道教事典 1994, p. 524f.
  4. ^ a b c 関尹子』 - コトバンク
  5. ^ 王 1999, p. 98.
  6. ^ 楠山 1984, p. 256.
  7. ^ a b c 池田 2014, 達生篇 訳者注釈.
  8. ^ 貝塚 1976, p. 240.
  9. ^ 吉岡 1976, p. 39.
  10. ^ 「六朝・隨唐時代の道佛論爭」研究班「「笑道論」譯注」『東方學報』第60号、京都大學人文科學研究所、533頁、1988年。 NAID 110000282367https://doi.org/10.14989/66677 
  11. ^ 中国文化史大事典 2013, p. 681.
  12. ^ 道教事典 1994, p. 321f.
  13. ^ 竹内好 訳「出関」『世界文学大系 第62 (魯迅,茅盾)』筑摩書房、1958年。NDLJP:1335765/80
  14. ^ 魏 2012.
  15. ^ 坂出祥伸『江戸期の道教崇拜者たち 谷口一雲・大江文坡・大神貫道・中山城山・平田篤胤』汲古書院〈汲古叢書〉、2015年、9頁。 ISBN 9784762950728 

参考文献

外部リンク


尹喜

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老子」の記事における「尹喜」の解説

伝統的記述では、老子都市生活におけるモラル低下うんざりするようになり、王国衰退記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方移住し世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲たなびくのに気づき、4人の供を連れた老子出迎え知恵書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子供し二度とその姿を見せなかったともある。 この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する関尹關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子関尹老子(老聃)と同じ道家一派分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称関尹」なる人物が、尊敬する老子出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。 郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想老子思想体系化に影響与えた考えられる

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