五百歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 10:07 UTC 版)
三時または五箇の五百歳は『大集経』に説かれる。 「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」 日本では伝統的に『末法燈明記』(最澄の著作とされていたが偽書説がある)を根拠に1052年(永承7年)に末法に入ったとされたため、ここではそれに従う。この考え方では釈迦の入滅を『周書異記』を根拠に紀元前949年とする(考古学的な推測よりかなり古い時代であり、東南アジアの仏暦ともかなりの差がある)。 第一の五百歳解脱堅固…インドにおいて迦葉(マハーカッサパ)・阿難(アーナンダ)等が小乗教を弘めた。 第二の五百歳禅定堅固…インドにおいて竜樹(ナーガールジュナ)・天親(ヴァスパンドゥ)等が大乗教を弘めた。 第三の五百歳読誦多聞堅固…仏教が東に流れて中国に渡り経典の翻訳や読誦、講説等が盛んに行われた。天台大師(智顗)が法華経を弘めた。 第四の五百歳多造塔寺堅固…仏教が東に流れて日本に渡り聖徳太子以来多くの寺塔が建てられた。伝教大師(最澄)が日本の仏教を統一し大乗戒壇を建てた。 第五の五百歳闘諍堅固・白法隠没…戦乱が激しくなり、釈迦の仏法が滅尽する。末法思想から鎌倉新仏教が起こった。
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