史話の毒饅頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 03:33 UTC 版)
慶長16年(1611年)3月の徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見の直後、会見場で秀頼を護衛した加藤清正が急死する。それを受けて、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎の題材にもなった。 それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を自ら毒味した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい自分の命と引き換えに秀頼を守ったという。 史実においても清正と平岩は会見後に死去している。しかし、清正が死去したのは同年6月24日であり、平岩の死去は12月30日であることから、同じ毒の影響にしてはあまりにも差があること、またこのような遅効性の毒は知られていないため歌舞伎の内容は俗説と見られている。また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長、池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡しているが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがある。
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