周磐とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 周磐の意味・解説 

周磐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 07:21 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

周 磐(しゅう ばん、49年 - 121年)は、後漢儒学者は堅伯。本貫汝南郡安成県

経歴

周燮の一族であり、建武初年に天水太守をつとめた周業の孫にあたる。

若くして洛陽に遊学し、『古文尚書』や『洪範五行』や『春秋左氏伝』を学んだ。礼を好んで行い、『尚書』にないことは言わず、儒者たちはかれを師と仰いだ。貧しい生活で母を養った。『詩経』の汝墳の章を読み終わると、憤り嘆いて韋帯(未仕官者の衣服)を解き、孝廉の挙に応じた。和帝の初年に、謁者となった。任城県令に任じられ、陽夏県令や重合県令を歴任し、いずれも善政で知られた。後に母のことを思って、官を捨てて郷里に帰った。母が没すると、服喪の期間が終わっても、墓の側に住み続けた。門徒に講学教授して、その学生は1000人に達した。

公府に3回召されたが、応じなかった。121年建光元年)、死去した。享年は73。

脚注

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「周磐」の関連用語

周磐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



周磐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの周磐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS