復辟事件
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1917年(民国6年)3月、府院の争いは対独宣戦をめぐって更に激化していく。従来は対独宣戦を進める段祺瑞を支持していた張勲だったが、この問題において張は対独宣戦反対の姿勢を示した。ドイツが密かに張勲が計画する復辟を支持し、在華銀行を通じての資金支援を行っていたことが影響していたのである。しかし張は明確な黎元洪派となったわけではなく、段とのつながりも保持していた。5月22日、張勲は4度目の徐州会議を開催したところ、この会議に段が腹心の徐樹錚を派遣し、黎の打倒を唆した。その翌日、黎が段を国務総理から罷免したため、督軍団に属する各省督軍は次々反黎の独立を仕掛けていく。 6月1日、劣勢に追い込まれた黎元洪は、事態の収拾を期待し、張勲を北京に招聘する電報を打った。7日、張は辮軍3千人余りを率いて徐州を出発し、途中の天津で黎に対して国会の解散を要求している。黎は12日に国会解散を命令し、14日に張は北京入りした。北京入りした張は直ちに念願の復辟に取り掛かり、7月1日に清朝復活を宣言した。いわゆる「張勲復辟」である。復辟に反対した黎元洪は日本大使館に逃れた。 しかし張勲復辟は、国内各種勢力や世論から激しい反感を買った。しかも、かつて督軍団の首領と目されていた張勲であったにもかかわらず、督軍団の督軍たちからも支持は得られなかったのである。そして7月3日、段祺瑞は素早く張勲打倒を宣言、日本の支援も受けて天津で「討逆軍」を組織した。段の軍勢は5万人余りの規模であり、張には対抗する術などなかった。12日、辮軍は壊滅し、ドイツの庇護により張はオランダ公使館に逃げ込んでいる。こうして張勲復辟は、僅か12日であっけなく失敗に終わったのであった。 1918年(民国7年)10月、張勲は特赦を受けたものの、もはや何の実権も無かった。1921年(民国10年)、熱河林墾督弁に任命されたが、実際には赴任していない。1923年(民国12年)9月12日、天津にて病没。享年70(満68歳)。諡は忠武。
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