復辟事件とは? わかりやすく解説

復辟事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:23 UTC 版)

張勲 (清末民初)」の記事における「復辟事件」の解説

1917年民国6年3月府院の争いは対独宣戦めぐって更に激化していく。従来は対独宣戦進め段祺瑞支持していた張勲だったが、この問題において張は対独宣戦反対姿勢示したドイツ密かに張勲計画する復辟支持し、在華銀行を通じて資金支援行っていたことが影響していたのである。しかし張は明確な黎元洪となったわけではなく、段とのつながり保持していた。5月22日張勲4度目徐州会議開催したところ、この会議に段が腹心徐樹錚派遣し、黎の打倒唆した。その翌日、黎が段を国務総理から罷免したため督軍団に属す各省督軍次々反黎の独立仕掛けていく。 6月1日劣勢に追い込まれ黎元洪は、事態の収拾期待し張勲北京招聘する電報打った7日、張は辮軍3千人余り率いて徐州出発し途中天津で黎に対して国会解散要求している。黎は12日国会解散命令し14日に張は北京入りした。北京入りした張は直ち念願復辟取り掛かり7月1日清朝復活宣言したいわゆる張勲復辟」である。復辟反対した黎元洪日本大使館逃れた。 しかし張勲復辟は、国内各種勢力世論から激し反感を買った。しかも、かつて督軍団の首領目されていた張勲であったにもかかわらず督軍団の督軍たちから支持得られなかったのである。そして7月3日段祺瑞素早く張勲打倒宣言日本の支援受けて天津で「討逆軍」を組織した。段の軍勢5万余り規模であり、張には対抗する術などなかった。12日、辮軍は壊滅しドイツ庇護により張はオランダ公使館逃げ込んでいる。こうして張勲復辟は、僅か12日あっけなく失敗終わったであった1918年民国7年10月張勲特赦受けたものの、もはや何の実権無かった1921年民国10年)、熱河墾督弁に任命されたが、実際に赴任していない。1923年民国12年9月12日天津にて病没享年70(満68歳)。諡は忠武。

※この「復辟事件」の解説は、「張勲 (清末民初)」の解説の一部です。
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