近衛天皇崩御とは? わかりやすく解説

近衛天皇崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:41 UTC 版)

藤原多子」の記事における「近衛天皇崩御」の解説

病弱だった近衛天皇は、久寿2年1155年7月崩御多子近衛河原幽居した。保元元年1156年)の保元の乱では養父・頼長が敗死するが、徳大寺家は、祖父・実能が皇太子守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅となり、多子の姉・忻子が後白河天皇後宮に入るなど、すでに頼長派から離脱していたため打撃は受けなかった。保元元年1156年10月、忻子が後白河中宮に、呈子皇后となったことから、多子皇太后移り保元3年1158年2月統子内親王皇后になると、呈子皇太后移ったことから太皇太后となった

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近衛天皇崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 05:36 UTC 版)

保元の乱」の記事における「近衛天皇崩御」の解説

内覧となった頼長は旧儀復興綱紀粛正取り組んだが、その苛烈妥協知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢生むことになる。仁平元年1151年)には藤原家成邸宅破却するという事件を引き起こし鳥羽法皇の頼長に対す心証悪化したこのような中、仁平3年1153年)に近衛天皇重病陥る後継者としては崇徳第一皇子重仁親王有力だったが、忠通は美福門院養子守仁親王への譲位法皇奏上する当時近衛天皇面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力独占するために天皇病気だと嘘をついている信じてこの提案拒絶鳥羽法皇の忠通に対す心証悪化した。しかし、美福門院と忠通は崇徳院政阻止するために守仁擁立実現向けて動き出すことになる。 久寿2年1155年7月23日近衛天皇崩御する後継天皇決め王者議定参加したのは源雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王守仁親王暲子内親王上がったが、守仁親王即位するまで中継ぎとして、父の雅仁親王立太子しないまま29歳即位することになった後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父雅仁飛び越えて即位如何なものかとの声が上がっためだった。突然の雅仁擁立背景には、雅仁乳母の夫で近臣信西策動があったと推測されるまた、幼少守仁即位をしてその成人前法皇崩御し場合には、健在である唯一の院(上皇法皇)となる崇徳上皇の治天・院政開始される可能性浮上するため、それを回避するためにも雅仁即位する必要があったとも考えられる。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上失脚態となっていた(前述のように近衛天皇病気数年前からのものであったが、忠通がその情報独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院通して法皇信頼取り戻そうとしたが、12月高陽院死去したことでその望み絶たれた。

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