近衛天皇崩御
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病弱だった近衛天皇は、久寿2年(1155年)7月に崩御。多子は近衛河原に幽居した。保元元年(1156年)の保元の乱では養父・頼長が敗死するが、徳大寺家は、祖父・実能が皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅となり、多子の姉・忻子が後白河天皇の後宮に入るなど、すでに頼長派から離脱していたため打撃は受けなかった。保元元年(1156年)10月、忻子が後白河の中宮に、呈子が皇后となったことから、多子は皇太后に移り、保元3年(1158年)2月、統子内親王が皇后になると、呈子が皇太后に移ったことから太皇太后となった。
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近衛天皇崩御
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内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
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