近衛大将をめぐる逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 06:10 UTC 版)
近衛大将は名誉であり、この職をめぐる相克も多かった。 藤原兼通が最後の除目と称して藤原兼家の右大将を奪ったが、後任の希望者を問われた際に居並ぶ公卿は誰も応えず、もう一度問われて藤原済時が駄目で元々と名乗り出、その場で任ぜられた。 寛治7年(1093年)12月27日、左大臣源俊房が左大将を兼ねた。当時右大臣は源顕房であり右大将は源雅実である。左右大臣と左右大将がすべて源氏(当時は村上源氏が隆盛を誇った。俊房と顕房は同母兄弟で母は藤原道長の娘藤原尊子、雅実は顕房の長男である)で占められたのはこれが初めてであると藤原宗忠が『中右記』に記している。 保延5年(1139年)に徳大寺実能が、上臈の三条実行と源雅定を超越して右大将になった際には、実行と雅定は籠居してしまった。2人は翌年にも左大将の地位を争ったが、『今鏡』によると、治天の君である鳥羽法皇がわざわざ崇徳天皇のもとを訪れて直接、雅定を任じるよう推したために、雅定が任じられたという。 これより先、白河上皇は藤原宗通を大将に任じようとしたが、堀河天皇が許さなかったといい、『平治物語』によると、後白河上皇の院近臣であった権中納言藤原信頼が大臣大将兼任を希望した際に、 信西はこの例をひいてこれを退け、これが平治の乱の原因の一つとなったという。『平家物語』では権大納言藤原成親もまた大将を望んで平宗盛に先を越されたために鹿ケ谷の陰謀に与したとされる。ただし、信頼・成親ともに、本来は近衛大将に就任しうる家格ではなかった。これらの逸話は、文学的虚構の可能性が高い。 文明5年(1473年)12月の除目では、近衛大将の希望者がまったく現れないという事態が起きている。
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