近衛内閣の総辞職と東條内閣の成立
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「日米交渉」の記事における「近衛内閣の総辞職と東條内閣の成立」の解説
10月14日夜、閣議での東條陸相の発言により、近衛首相は総辞職を決意した。近衛が鈴木企画院総裁を介して、総辞職後の政局の収拾について東條の考えを聞くと、東條は東久邇宮稔彦王を後継内閣の首相に推薦した。 『近衛手記』によると、東條の意見は「段々其後探る処によると海軍が戦争を欲しないようである。…海軍がさういふやうに肚がきまらないならば、9月6日の御前会議は根本的に覆へる」「御前会議に列席した首相はじめ陸海大臣も統帥部の総長も、皆輔弼の責を充分に尽くさなかったことになるのであるから、此の際は全部辞職して今までのことをご破算にして、もう一度案を練り直すといふこと以外にないと思ふ。それには陸海軍を抑えてもう一度此の案を練り直すといふ力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思ふ」ということであった。東久邇宮は対米戦反対論者であったため、近衛も東條の意見に賛成した。 翌15日から16日にかけ、近衛、東條、鈴木、木戸幸一内大臣の間で後継内閣の首相について折衝が行われたが、木戸は難問が未解決のまま打開策を皇族にお願いするのは絶対に不可、また皇族内閣で戦争に突入すれば皇室が国民の怨府となる恐れがあることを理由に東久邇宮内閣に反対した。木戸の反対を伝えられた近衛は、閣僚から辞表を取りまとめ、第三次近衛内閣は総辞職した。 10月17日、重臣会議が開かれ、木戸の主張により東條を後継内閣の首相(兼陸相)に推挙することになった。木戸が東條を指名したのは、天皇に対する忠誠心が人一倍強いためだといわれる。東條は昭和天皇から陸軍の主戦論および駐兵固守の態度についてお叱りを受けるものと覚悟して参内したが、予想に反して組閣の大命を受けた。さらに東條は昭和天皇から陸海軍の協力を一層密にするよう命じられ、続いて参内した及川海相も陸海軍の協力を命じられた。また、東條、及川には木戸から9月6日御前会議決定の白紙還元の聖旨が伝えられた。 東條内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行ったと見ることもできる。東條は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた。また、東條は大蔵大臣候補の賀屋興宣との入閣交渉では「できるだけ日米交渉に努力して、戦争にならないように平和に解決できるように努力したい」と述べており、及川海相の後任候補となった嶋田繁太郎との入閣交渉においても「海軍軍備の充実」とともに「外交の推進」を約していた。東條の交渉推進への方向転換については、陸軍内部から「東條変節」と評する声さえ聞かれたが、東條にとっては天皇の御言葉が絶対であった。 なお、近衛内閣の崩壊と軍人内閣の出現はアメリカ側に戸惑いを与えたものの、それほど悪い印象を与えたわけではなかった。戦争に打って出る危険性は孕んでいるものの、日米間の対話は継続されるというのが大方の認識であった 。
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