突然の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:36 UTC 版)
日本敗北直後の1945年(民国34年)9月27日から始まった漢奸狩りにおいて、上海で繆斌は軍統に逮捕された。繆は獄中で「私の対日工作(原題「我的対日工作」)」を執筆し、弁明を試みている。しかし翌1946年(民国35年)4月3日より、江蘇高等法院で審理が開始され、8日には敵国通謀の罪(いわゆる「漢奸」の罪)で石美瑜裁判長により死刑が言い渡された。漢奸粛清で最後に捕まったにもかかわらず最初に処刑された。 繆斌は控訴を試みるもならず、同年5月21日に蘇州獅子口第3監獄で銃殺刑に処せられた。享年48。繆の処刑は、陳公博のそれ(同年6月3日)よりも早い。繆は蘇州郊外に埋葬されたが、文化大革命で墓所が破壊され、遺骨の所在は不明となっているという。 繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、蔣介石には繆を「漢奸」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば劉傑と鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、蔣による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、カイロ会談で蔣が徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。つまり蔣介石のこの慌てた処刑処置こそが、繆を通じての和平工作が蔣介石の真意だったということを証明しているということになる。
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