開戦回避交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)
1941年(昭和16年)10月、東條内閣に外務大臣として入閣する。大命降下を受けた東條はもともとは対米強硬派であったが、昭和天皇から直接、対米参戦回避に尽くすよう告げられてただちに態度を改め、対米協調派の東郷を外相に起用したのである。外務省における東郷は職業外交官としての手腕には定評があったが、主流派とは言えず、打ち解けない性格から省内人脈も少なかった。外相に就任した東郷は次官に西春彦、アメリカ局長に山本熊一(東亜局長兼任)、アメリカ課長に加瀬俊一(としかず)を迎えて対米交渉の布陣とし、また分裂する省内を引き締めるために枢軸派の大使1名に辞表提出を求め、その他課長2名・事務官1名を休職として統制を回復した。東郷も天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。 このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。 その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、ハル・ノートを「最後通牒」であると上奏、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。
※この「開戦回避交渉」の解説は、「東郷茂徳」の解説の一部です。
「開戦回避交渉」を含む「東郷茂徳」の記事については、「東郷茂徳」の概要を参照ください。
- 開戦回避交渉のページへのリンク