ポーランド=チェコスロバキア連邦構想とは? わかりやすく解説

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ポーランド=チェコスロバキア連邦構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 13:58 UTC 版)

チェコスロバキア亡命政府」の記事における「ポーランド=チェコスロバキア連邦構想」の解説

ベネシュ1939年10月ポーランド亡命政府ヴワディスワフ・シコルスキ首相会談し、対チェコスロバキア政策強硬だった戦前とは異な感触得た11月再度ベネシュシコルスキ会談し、チェコスロバキア・ポーランドを中心とする連邦成立させることで合意した1940年3月には連邦成立向けた共同宣言行っている。しかしイギリスによるベネシュ政権承認独ソ戦勃発は、チェコスロバキア国際的地位高めポーランドに対してミュンヘン協定割譲したチェスキー・チェシーン返還要求するなど強硬な態度を取るようになったシコルスキはチェシーン問題棚上げして連邦成立優先しようとし、1942年1月19日には第二回共同宣言取り決められた。しかしベネシュはこの宣言評価しないなど、次第両国間の溝は深まっていった。 連邦構想破綻きっかけ第二回宣言が行われた1942年1月ポーランド外相エドワルド・ラチンスキ(en:Edward Bernard Raczyński)が連邦バルト侵攻によってソビエト連邦支配下置いていたリトアニア加えるべきと発言したことであったポーランド連邦構想によってソビエト連邦との国境問題有利に導こうとしていたが、対ソ接近意図していたベネシュにとってソ連との関係悪化歓迎できない事態であったベネシュリトアニア問題での譲歩ポーランド勧告したが、リトアニア喪失許容できないソ連中欧連邦反対に方針転換した。7月16日ソ連連邦反対意向明確に伝達しベネシュ連邦構想消極となったその後カティンの森事件などによるポーランド・ソ連関係の悪化により、連邦構想は自然消滅した

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