ポーランド=チェコスロバキア連邦構想
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「チェコスロバキア亡命政府」の記事における「ポーランド=チェコスロバキア連邦構想」の解説
ベネシュは1939年10月にポーランド亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキ首相と会談し、対チェコスロバキア政策で強硬だった戦前とは異なる感触を得た。11月に再度ベネシュとシコルスキは会談し、チェコスロバキア・ポーランドを中心とする連邦を成立させることで合意した。1940年3月には連邦成立に向けた共同宣言を行っている。しかしイギリスによるベネシュ政権承認と独ソ戦勃発は、チェコスロバキアの国際的地位を高め、ポーランドに対してミュンヘン協定で割譲したチェスキー・チェシーンの返還を要求するなど強硬な態度を取るようになった。シコルスキはチェシーン問題を棚上げして連邦成立を優先しようとし、1942年1月19日には第二回共同宣言が取り決められた。しかしベネシュはこの宣言を評価しないなど、次第に両国間の溝は深まっていった。 連邦構想破綻のきっかけは第二回宣言が行われた1942年1月、ポーランド外相エドワルド・ラチンスキ(en:Edward Bernard Raczyński)が連邦にバルト侵攻によってソビエト連邦が支配下に置いていたリトアニアを加えるべきと発言したことであった。ポーランドは連邦構想によってソビエト連邦との国境問題を有利に導こうとしていたが、対ソ接近を意図していたベネシュにとってソ連との関係悪化は歓迎できない事態であった。ベネシュはリトアニア問題での譲歩をポーランドに勧告したが、リトアニア喪失を許容できないソ連は中欧連邦反対に方針転換した。7月16日にソ連は連邦反対の意向を明確に伝達し、ベネシュも連邦構想に消極的となった。その後カティンの森事件などによるポーランド・ソ連関係の悪化により、連邦構想は自然消滅した。
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