連邦成立
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「オーストラリアの歴史」の記事における「連邦成立」の解説
労使対立や1890年代の金融恐慌などによる社会不安は、各植民地の連携を促進した。1890年2月にメルボルンで、1891年3月にはシドニーで、連邦憲法制定に向けた会議が開催された。同様の会議が各地で開催され、アメリカ型の連邦国家の建設が決定した。これに沿って憲法草案が作成された。1900年、イギリス議会はオーストラリア憲法令を可決し、翌1901年1月1日にオーストラリア連邦 (Commonwealth of Australia) が成立した。これによりオーストラリアは内政自治権を獲得したが、外交権はなおイギリスの手にあった。 連邦成立以後のオーストラリアは主に労働党政権のもとで、貿易航海時の外国船使用の禁止と白人船員雇用の義務化、連邦関税の設定など保護主義的政策を採った。政府は鉄道網や道路網、電信網などほとんどの社会基盤整備を主導し、また連邦調停仲裁裁判所の設立、出産手当の創設、大土地主有の制限などもこの時期に実施された。労働党はこうした社会主義的政策で支持を集め、党勢を拡大した。これに対し、自由貿易派のジョージ・リード (George Reid) らは反社会主義を掲げ、労働党と対立した。
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