龍沢寺と終戦工作とは? わかりやすく解説

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龍沢寺と終戦工作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:43 UTC 版)

田中清玄」の記事における「龍沢寺と終戦工作」の解説

1941年4月29日10年1か月刑期終え出所身元引受け人は内務省警保局長富田健治田中明治神宮皇居拝したのち、5月1日三島龍沢寺山本玄峰訪ね、「自分本当ルーツ発見してマルクス主義惟神かんながら)の道などという狭隘一神教的な道ではない、自分本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ五・一五事件法廷井上日召特別弁護人引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所田中法話をしていた。田中山本紹介したのは血盟団事件連座した四元義隆だった。ほか、龍沢寺には、鈴木貫太郎米内光政吉田茂安倍能成伊沢多喜男岡田啓介迫水久常岩波茂雄多く人士出入りし多く軍部批判していたという。また玄峰は谷中全生庵でも法話行い三井池田成彬侍従入江相政らも訪れた迫水久常東条英機老師会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。田中は玄峰の秘書用心棒勤めた。 また1941年井上日召海軍三上卓四元義隆菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立し近衛文麿前首相ブレーンとして活躍するが、この塾に田中入塾している。1944年土木請負造船業始め、のちの神中組の基礎をつくる。陸軍主導作られ軍需国策会社であった昭和通商にも友人がおり、関係があった。 1945年1月、玄峰は公案に「日本どうするか」を出した清玄が「戦争をとめるしかありません」と言うと、「だめだ、練り直してこい」と却下三日たっても答えられないでいると、「無条件戦争負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦聖戦完遂は、我執とらわれているという。これで清玄は国を救う決意かたまり神中組という結社をつくる。また終戦工作加担する田中清玄枢密顧問官伊沢多喜男相談3月25日赤坂山本玄峰鈴木貫太郎会談、「事態収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木終戦内閣大命下り日本ポツダム宣言受諾した

※この「龍沢寺と終戦工作」の解説は、「田中清玄」の解説の一部です。
「龍沢寺と終戦工作」を含む「田中清玄」の記事については、「田中清玄」の概要を参照ください。

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