第一航空団
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「ウラジーミル・コマロフ」の記事における「第一航空団」の解説
1959年9月、コマロフは主任技師に昇進し、約3000人の操縦士たちとともに宇宙飛行士候補者選考会への出席に招待された。彼は第一航空団で20人の候補者の1人に選ばれ、1960年3月13日にモスクワ郊外にある「TsPK」(モスクワ州ズヨーズヌイ・ガラードック, Звёздный Городок, 「星の街」)に赴き、他の操縦士たちとともに任務を開始した。優秀であったにもかかわらず、コマロフは上位6名の候補者には選ばれなかった。ロシアの宇宙計画の主任設計者であったセルギイ・カラーリェフ(Сергей Королев)が指定した年齢、身長、体重の制限を満たしていなかったのが理由であった。宇宙飛行訓練教官のマルク・ガーライ(Марк Галлай)は、取材訪問で「もしも基準が違っていたら」「確かに、コマロフは高度な知能の持ち主であり、候補者の1人に選ばれたかもしれない。彼には空軍士官学校での飛行経験もあった。『ヴォストーク』と『ヴォスホート』の設計は、コマロフの尽力によるところが大きい」と語った。当時、コマロフは32歳であり、選抜された操縦士の中では2番目に年上であった。セルギイ・カラーリェフは、操縦士の最高年齢について「27歳」と指定していた。第一隊の中でソ連空軍学校を卒業したのは、パーヴェル・ベリャーイェフ(Павло Бєляєв)とコマロフの2人だけであった。加えて、新型の航空機の航空試験技師の経験もあったのはコマロフのみであった。
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