頼聿庵とは? わかりやすく解説

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頼聿庵

読み方らい いつあん

江戸後期儒者山陽の子。名は元協、字は承緒、通称は余一、別号に春嶂がある。春水歿後広島宗家継ぎ、のち学問所儒員となる。また山陽遺書を弟支峰や三三郎らと謀り開版行った安政3年1856)歿、56才。

頼聿庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 07:02 UTC 版)

頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日1801年4月3日) - 安政3年8月30日1856年9月28日))は、江戸時代の儒学者。広島藩儒。名は元協、字は承緒。幼名は津具雄、通称は餘一。別号に春嶂・鶴年・迂娯軒(うごけん)・鯉城僲史(りじょうせんし)・三十六鱗魚城退士(さんじゅうろくりんぎょじょうたいし)[1][2]

略伝

頼山陽の長男。母の淳(御園氏)のお腹の中にいる時に山陽が出奔したため、藩法により生まれてすぐ母は離縁され生家に戻され、以降祖父母にあたる頼春水梅颸夫婦の子どもとして育てられる[2][3][1]。春水の嫡子は山陽が出奔したため廃嫡されたことにより、養嗣として春水の弟である頼春風の子の頼元鼎(頼景譲)を迎えていた[3]。山陽自身は捕らえられ連れ戻され春水の屋敷の離れ(現頼山陽史跡資料館頼山陽居室)に幽閉され、文化2年(1805年)謹慎が解かれたのち、文化8年(1811年)京都を拠点としている[4]。聿庵は春水の屋敷で育てられ、幼き頃より春水や景譲、そして春水と春風の弟にあたる頼杏坪から薫陶を受ける。文化12年(1815年)景譲が病死[3]、そのため聿庵が春水の嫡子となった。

文化13年(1816年)、聿庵16歳の時に春水が死去、広島頼家の家督を継ぐ[3][1]。藩命により後見人に春風が着き、以降聿庵は主に杏坪から学ぶことになる[2][3][5]。文政元年(1818年)、藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に出仕。頼家は祖父の春水から代々藩儒を勤めており、聿庵もこれを引き継ぐことになる[6]

天保2年(1831年)5月、聿庵31歳の時に江戸詰となる[3]。江戸に向かう最中、京都で父の山陽と対面を果たした[3]。天保3年(1832年)広島藩奥詰次席[3]。同年9月、父の山陽死去[3]。天保4年(1833年)江戸詰の聿庵は藩主浅野斉粛に山陽の著書『日本外史』を献上する[3]。江戸詰は天保4年まで。また藩主浅野斉粛の嫡子である浅野慶熾の侍講となる[3][6]

広島に戻ると、春水に倣い家塾「天日堂」を起こす[3]。天保12年(1841年)広島藩奥詰。また山陽死去により生活が苦しくなった腹違いの弟(いわゆる京都頼家)の頼支峰と頼三樹三郎の面倒を見ている[3]。ただ山陽死去後、聿庵は度々酒に溺れるようになっていき、親友の坂井虎山に窘められるなど周囲が心配するほどとなった[3]。嘉永2年(1849年)2月藩主浅野斉粛の前で、藩の重臣の今中大学を罵倒したことにより謹慎処分を受け[2]、嘉永3年(1850年)3月聿庵48歳の時に隠居、家督を嗣子の頼誠軒に譲った[3]

安政3年(1856年)病気により死去。享年56。墓所は広島市南区比治山にある多聞院。著作に「聿庵詩稿」など[6]

家系

尾藤二洲
 
 
 
 
梅月
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼誠軒
 
 
飯岡義斎
 
 
梅颸
 
 
 
頼聿庵
 
 
 
 
 
 
頼山陽
 
 
頼惟清
 
頼春水
 
 
 
頼支峰
 
 
 
 
 
 
 
梨影
 
 
 
 
 
 
頼三樹三郎
 
 
 
 
 
 
 
頼春風
 
頼景譲
 
頼達堂
 
 
 
 
 
 
 
 
頼小園
 
 
 
 
 
 
頼杏坪
 
頼采真
 
頼正義
 
 
 

エピソード

  • 能書家としての才能は山陽を凌ぐと評価されている[7]。書は当初春水から学びそこから山陽のち東坡を模倣するようになり、春水曰く幼少期の聿庵の才能は幼少期の山陽を凌ぐと評している[3]。その書風は、頼家伝統のものでありながら、山陽死去後酒に溺れるようになると晩年は雄勁奔放なものとなっていった[2][7][3]。判読の難しい書も現存している[2]。他藩の藩主が聿庵の書を欲しがり、お礼にと大絹二枚を拝領している[2]
  • 広島藩の居城である広島城は別名「鯉城」と言われるが、現存最古の鯉城が出てくる資料が聿庵が書いた漢詩『遊東郊』である[2][8]。これは聿庵が遊んでいる最中に、二葉山から広島城と饒津神社を見て詠んだ詩である[2]。そこから鯉城の別称はこの時期に生まれたとする説もある[9]。聿庵はこの鯉城という名称を気に入っており、鯉城が入った別号を名乗っていたこともある[2]
  • 別号の迂娯軒(うごけん)は、嘉永2年(1849年)謹慎処分を受けた時に名乗ったもの[2]広島弁の動けん(動けない)からのもので、謹慎の身を自虐的に表している[2]
  • 弘化2年(1845年)、聿庵44歳の時に17歳の本因坊秀策が訪問し、これを受けて聿庵は一詩作り秀策に送った。これは現在掛け軸として尾道市因島の遺品館「碁聖閣」に保存されている。為書きには「因島の阿虎来りて詩を索む 欣然筆を走らす(因島から可愛い虎次郎がやって来て詩を書いて戻れというので欣んで筆を走らせた)」と添えてあり、対面を喜んでいたことが窺い知れる[10]
  • 長男に種痘している。嘉永2年(1849年)長崎で学んだ長野秋甫が広島に立ち寄り聿庵に種痘の話をした。聿庵は興味を持ち、自分の子に種痘したいと申し出たことにより実現した。これは長崎・佐賀に次いで3番目の成功例、つまり広島として初の種痘成功例となった[11]
  • 広島頼家、聿庵の子孫に漢文学者の頼惟勤がいる。

脚注

  1. ^ a b c 頼聿庵”. 福山誠之館同窓会. 2015年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l しろうや!広島城 第49号” (PDF). 広島城公式. 2016年9月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 手島 1925, pp. 8–9.
  4. ^ 手島 1925, pp. 7–8.
  5. ^ 重要文化財 「春風館」頼家住宅 「復古館」頼家住宅”. 竹原市. 2015年10月13日閲覧。
  6. ^ a b c 頼聿庵”. コトバンク. 2015年10月14日閲覧。
  7. ^ a b 頼聿庵の書~迸る情念”. ひろしま観光ナビ. 2015年10月13日閲覧。
  8. ^ しろうや!広島城 第9号” (PDF). 広島城博物館. 2015年10月13日閲覧。
  9. ^ 鯉城名付け親は山陽の長男?”. 中国新聞 (2007年7月6日). 2015年10月13日閲覧。
  10. ^ 伝説の碁打ち 本因坊秀策【7】初心者にもわかる名勝負 歴史に残る「耳赤」エピソードその五”. せとうちタイムズ. 2015年10月13日閲覧。
  11. ^ 原田康夫. “国の重要文化財になった広大医学資料館の「木骨」と後藤家 : (広島初の種痘にかかわった後藤松軒)” (PDF). 広仁会々報. 2015年10月13日閲覧。

出典

関連項目



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