杉ノ木小路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 19:16 UTC 版)
寛政元年(1789年)、藩から屋敷を拝領し、頼家は当時「杉ノ木小路(すぎのきしょうじ)」と呼ばれた武家屋敷地である現在のこの地へ移り住んだ。 当時の平面図が坂本箕山(坂本辰之助)作『頼山陽大観』に残っている。敷地400坪、玄関が二つあり、客間が2間、奥の12畳が春水の部屋だった。小さな離れがあり、これが現在の頼山陽居室にあたる。春水は当初不便に感じていたが手を加えず数年我慢し、後に部屋割りを変更するなどリフォーム工事をしている。 寛政12年(1800年)、山陽は脱藩を企てるもすぐに見つかり連れ戻され廃嫡されこの地に幽閉、文化2年(1805年)謹慎が解かれたのち、菅茶山の廉塾へ、のち京都へ向かう。頼家は山陽の長男である頼聿庵が跡を継ぎ藩儒として藩校学問所の教授となり、その息子である頼誠軒も学問所の教授となった。
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