代議士として
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1949年には第24回衆議院議員総選挙に京都2区(当時)から吉田茂の民主自由党公認で立候補した。前尾は演説でもっぱら「政界浄化」や「取引高税の廃止」、「行政整理や統制解除」を訴えたり、財政の数字を並べたりときまじめで学者肌で大衆受けするものでは無く、不評だった。周囲は「明日の大蔵大臣」などと前尾を宣伝するのに、本人は夜の会合で、酒を注ぐのも嫌がったり、胸に花をつけるのも恥ずかしがったくらいであった。酒が入っても演説は一向に上達しなかった。選挙区には演説の名手である民主党の前首相・芦田均がいた。刑事訴追を受けた芦田は危機感を募らせ、「泣いて涙の1票を」と気迫を込めた演説を各地で展開していた。選挙を支えたのは各地の税務官吏の隠れた支援だった。丹後の織物組合、漁業組合のほかに右京区の料飲組合、宇治の茶業組合など支援団体や支援企業が次第に広がっていった。松下幸之助が貸してくれた、当時では珍しい高性能マイクも前尾陣営の士気を高め、誠実な人柄と、運動員が手弁当で行った選挙運動や大蔵省の最終ポストがお金を作る造幣局長であったことから、開票の結果、前尾は4万5千票余りを獲得して定員5人中、3位で初当選を飾った。43歳だった。以後、当選12回を数えた(当選同期に橋本龍伍・岡崎勝男・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。前尾はヌーボーとした風貌から「暗闇の牛」のあだ名がついたが、由来の一説にこの選挙の時に宣伝車のトラックに七輪を持ち込んで熱燗をやりながら選挙運動をし、ある夜暗い夜道に牛が出てきて酔っぱらった前尾は、牛に頭を下げたというのがある。 1952年8月の抜き打ち解散で前尾は2回目の当選を飾った。選挙後の第4次吉田内閣で木暮武太夫が政調会長になり、前尾は副会長にとどまった。計画造船に対する利子補給法改正案についても前尾は改進党の河本敏夫と折衝して原案の作成にあたった。 「吉田学校」の一員として衆議院地方行政委員長や外務委員長を経て、1957年の第1次岸改造内閣で通商産業大臣として入閣。中小企業団体組織法を成立させ、繊維不況の救済に初めて織機の買い入れ措置をとった。アラビア石油の油田開発の許可、日本貿易振興会、中小企業信用保険公庫の設立に尽力した。1958年5月の総選挙では芦田均をぬいて初めてトップ当選を飾った。 1959年7月の内閣改造では池田は岸とソリが合わなかったが通産相として岸内閣に入閣した。当時、池田は「月給2倍論」を唱えていた。池田の弟分である前尾繁三郎は自民党の経済調査会長として所得倍増論の肉付け、具体化に取り組み、「所得倍増論の基本構想」をまとめた。安保騒動の渦中で目立たなかったが、所得倍増論は池田や前尾が岸内閣の時代から仕込んでいた目玉政策であった。 1960年7月、「長年の夢だった」池田内閣の誕生。池田首相は幹事長に山崎巌を起用しようとした。前尾は戦時中のマカッサル民政府時代から山崎と親密な関係にあった。池田首相はまずベテランの山崎を幹事長にして、一呼吸置いて前尾を幹事長に据える意向だったと見られた。しかし、山崎起用案に池田派内、特に前尾とライバル関係にあった大橋武夫が強硬に反対した。大橋も内務省出身で一高では前尾の2年先輩であった。池田は結局、山崎の幹事長起用をあきらめ、池田派長老の益谷秀次が幹事長になった。大橋が筆頭副幹事長になり、前尾は地味な経理局長ポストに回った。経理局長として「国民協会」の立ち上げに取り組んだ。公明正大に政治資金を集めることをめざした。
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代議士として
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1930年、第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。 1933年、キリスト教団体美濃ミッションに対して「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と主張して排撃運動を推進した。 新体制運動のスローガンが叫ばれていた1939年、政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)に所属。1941年、翼賛議員同盟に反発して鳩山らとともに同交会の結成に参加。1942年、非推薦で翼賛選挙に立候補するも落選した。
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代議士として
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1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。 のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。 1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸を舐めながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。 犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。 1907年(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している。
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代議士として
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1965年に父・丈太郎が死去。次の1967年総選挙では、父の後継候補に推され、衆議院議員に初当選した。祖父・父同様に敬虔なクリスチャンであった河上は、1967年ごろから靖国神社国家護持法案提出の動きが自由民主党側から出てくるようになると、これに強く反発し、反対運動の先頭に立った。そのため、日本遺族会の反発もあり、1969年総選挙に落選した。1972年総選挙で衆議院議員に返り咲き、以後、1990年に政界を引退するまで連続当選を続けた。 河上は日本社会党内では数少ない知米派であり、得意の語学を生かして、党の国際交流の実務を担うことが多かった。1975年、日本社会党が江田三郎を団長とする訪米団を18年ぶりに派遣した際には、訪米に伴う実務を一手に引き受けている。
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