代議士としてとは? わかりやすく解説

代議士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:05 UTC 版)

前尾繁三郎」の記事における「代議士として」の解説

1949年には第24回衆議院議員総選挙京都2区当時)から吉田茂民主自由党公認立候補した。前尾は演説もっぱら政界浄化」や「取引高税の廃止」、「行政整理統制解除」を訴えたり、財政数字並べたりときまじめ学者肌で大衆受けするものでは無く不評だった。周囲は「明日大蔵大臣」などと前尾を宣伝するのに、本人は夜の会合で、酒を注ぐのも嫌がったり、胸に花をつけるのも恥ずかしがったくらいであった。酒が入って演説一向に上達しなかった。選挙区には演説名手である民主党前首相芦田均がいた。刑事訴追受けた芦田危機感募らせ、「泣いて涙の1票を」と気迫込めた演説各地展開していた。選挙支えたのは各地税務官吏隠れた支援だった。丹後織物組合漁業組合のほかに右京区料飲組合宇治茶業組合など支援団体支援企業次第広がっていった。松下幸之助貸してくれた、当時では珍しい高性能マイクも前尾陣営士気高め誠実な人柄と、運動員手弁当行った選挙運動大蔵省最終ポストお金作る造幣局であったことから、開票結果、前尾は45千票余り獲得して定員5人中3位初当選飾った43歳だった。以後当選12回を数えた当選同期橋本龍伍岡崎勝男麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など)。前尾はヌーボーとした風貌から「暗闇の牛」のあだ名がついたが、由来一説にこの選挙時に宣伝車のトラック七輪持ち込んで熱燗をやりながら選挙運動をし、ある夜暗夜道に牛が出てきて酔っぱらった前尾は、牛に頭を下げたというのがある。 1952年8月抜き打ち解散で前尾は2回目当選飾った選挙後第4次吉田内閣木暮武太夫政調会長になり、前尾は副会長とどまった計画造船対す利子補給法改正案についても前尾は改進党河本敏夫折衝して原案作成あたった。 「吉田学校」の一員として衆議院地方行政委員長外務委員長経て1957年第1次岸改造内閣通商産業大臣として入閣中小企業団体組織法を成立させ、繊維不況救済初め織機買い入れ措置をとった。アラビア石油油田開発許可日本貿易振興会中小企業信用保険公庫設立尽力した1958年5月総選挙では芦田均をぬいて初めトップ当選飾った1959年7月内閣改造では池田は岸とソリが合わなかったが通産相として岸内閣入閣した当時池田は「月給2倍論」を唱えていた。池田弟分である前尾繁三郎自民党経済調査会長として所得倍増論の肉付け具体化取り組み、「所得倍増論の基本構想」をまとめた。安保騒動渦中で目立たなかったが、所得倍増論は池田や前尾が岸内閣時代から仕込んでいた目玉政策であった1960年7月、「長年の夢だった」池田内閣誕生池田首相幹事長に山崎巌起用しようとした。前尾は戦時中マカッサル民政時代から山崎親密な関係にあった池田首相はまずベテラン山崎幹事長にして、一呼吸置いて前尾を幹事長に据え意向だったと見られた。しかし、山崎起用案に池田派内、特に前尾とライバル関係にあった大橋武夫強硬に反対した。大橋内務省出身一高では前尾の2年先輩であった池田結局山崎幹事長起用あきらめ池田派長老益谷秀次幹事長になった。大橋筆頭副幹事長になり、前尾は地味な経理局ポスト回った経理局長として「国民協会」の立ち上げ取り組んだ公明正大に政治資金集めることをめざした

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代議士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:35 UTC 版)

大野伴睦」の記事における「代議士として」の解説

1930年第17回衆議院議員総選挙岐阜1区から出馬して初当選政友会鳩山派属す1933年キリスト教団体美濃ミッションに対して市民合法的に実力美濃ミッション閉鎖せよ」と主張して排撃運動推進した新体制運動スローガン叫ばれていた1939年政友会の分裂際し鳩山一郎とともに正統派久原房之助派)に所属1941年翼賛議員同盟反発して鳩山とともに同交会結成参加1942年、非推薦翼賛選挙立候補する落選した

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代議士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:46 UTC 版)

犬養毅」の記事における「代議士として」の解説

1890年明治23年)の第1回衆議院議員総選挙当選し以後42年間で18連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録打ち立てる。 のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派組んでいた)が、進歩党憲政本党結成参加1898年明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった1913年大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに憲政神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党首相桂太郎切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養辛酸舐めながら小政党率いることとなった立憲国民党その後革新倶楽部となる)。 犬養政治以外にも、神戸中華同文学校横浜山手中華学校名誉校長務めるなどしていた。この頃東亜同文会所属した犬養真の盟友である右翼巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジーネルータゴール孫文らと並び称される存在であった1907年明治40年)から頭山満とともに中国漫遊途に就く1911年明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国渡り亡命中の孫文荒尾にあった宮崎滔天生家匿う。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品残している。漢詩人井土霊山は『木堂雑誌』に掲載され記事犬養の手紙を「先づ上手」と賞している。

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代議士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 08:36 UTC 版)

河上民雄」の記事における「代議士として」の解説

1965年に父・丈太郎死去次の1967年総選挙では、父の後継候補推され衆議院議員に初当選した。祖父・父同様に敬虔なクリスチャンであった河上は、1967年ごろから靖国神社国家護持法案提出動き自由民主党側から出てくるようになると、これに強く反発し反対運動先頭立った。そのため、日本遺族会反発もあり、1969年総選挙落選した1972年総選挙衆議院議員返り咲き以後1990年政界引退するまで連続当選続けた河上日本社会党内では数少ない知米派であり、得意の語学生かして、党の国際交流実務を担うことが多かった1975年日本社会党江田三郎団長とする訪米団を18年ぶりに派遣した際には、訪米に伴う実務一手引き受けている。

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