衆議院議員に初当選
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2000年6月25日、第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で神奈川7区から立候補。85,340票を集めた現職の鈴木恒夫(自由民主党)・80,189票を集めた首藤信彦(民主党)に次ぐ、37,827票の3位に終わったが、首藤と同様に比例復活で初当選。 2003年、自由党の合併により民主党所属となる。同年11月9日の第43回衆議院議員総選挙では、神奈川7区民主党の現職首藤との間で候補者調整が行われ、樋高は7区と隣接する神奈川18区からの立候補となった。18区での準備期間は短かったが64,879票を集め、58,001票の山際大志郎(自民党)を破り再選。 2005年9月11日、第44回衆議院議員総選挙に民主党公認で立候補。111,787票を集めた山際に対し、77,877票の次点となる。名簿順位2位で重複立候補していたが、惜敗率69.6%の為復活できず落選。 2009年8月30日実施の第45回衆議院議員総選挙に民主党公認で立候補。110,239票を集め、前職の山際を下し3選。 2009年10月7日、民主党副幹事長に就任。2010年6月に党副幹事長を退任。 2010年9月に環境大臣政務官に就任。 2011年6月1日、菅内閣不信任決議案に賛成するため環境大臣政務官の辞表を提出したが、6月2日の衆議院本会議前の民主党代議士会で菅直人首相の早期退陣が示唆されたことから、同決議案の採決では反対票を投じた。6月3日には菅首相からの慰留に応じ、辞表を撤回した。 2011年9月に党総括副幹事長と党税制調査会副会長に就任。 2012年の消費増税をめぐる政局では、野田内閣による消費増税法案の閣議決定に抗議して3月30日に党総括副幹事長の辞表を提出し、4月23日の党役員会で受理された。6月26日の衆議院本会議で行われた同法案の採決では、党の賛成方針に反して反対票を投じた。7月2日には山岡賢次らを介して離党届が提出された。民主党は7月3日の常任幹事会で離党届を受理せず除籍処分とする方針を決定し、7月9日の常任幹事会で正式決定した。 同年7月11日、国民の生活が第一結党に参加した。党幹事長代行(国会担当)に就任。 同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙に日本未来の党公認で立候補。25,279票の4位に終わり比例復活もできずに落選した。 2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙に生活の党公認で立候補。20,105票の5位に終わり比例復活もできずに落選した。 2017年の第48回衆議院議員総選挙では、自由党神奈川県連代表だった樋高は神奈川18区から立候補する予定であったが、自由党は野党結集を図るため公認候補を出さない方針を決めた。千葉12区に国替えし希望の党公認で立候補するも、落選。2018年4月に自由党神奈川18区支部長に復帰した。 2020年10月6日、旧立憲民主党と旧国民民主党の合流新党である「立憲民主党」は常任理事会を開き、2名の衆議院小選挙区総支部長を選任した。千葉12区は樋高、神奈川17区は元衆議院議員の神山洋介に決まった。2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙に千葉12区から出馬するも浜田靖一に敗れ、比例復活もならず落選。
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衆議院議員に初当選
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2012年9月10日、自民党愛知県連は大見の衆院選出馬表明の記者会見を設定。しかし一部先行報道を疑問視した大見は会見場で不出馬を表明。10月9日に改めて出馬表明を行った。同年12月の第46回衆議院議員総選挙に愛知13区から自民党公認で立候補。次点の民主党の大西健介に1483票差で勝利をおさめる(大見:98,670票、大西:97,187票)。大西は比例復活で当選。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙は大西に敗れるも、比例復活で再選。 2017年10月の第48回衆議院議員総選挙も大西に敗れるも、比例復活で3選。
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衆議院議員に初当選
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翌1958年の第28回衆議院総選挙には自民党公認で、横浜市を基盤とする旧神奈川県第1区(当時は中選挙区制。→衆議院選挙区一覧 (1947-1993)#神奈川県)から立候補して初当選(現職の民間人閣僚が新人代議士候補として総選挙に出馬し当選したのは、1954年に第1次鳩山一郎内閣の大蔵大臣として民間から起用された一万田尚登が翌年の第27回衆議院総選挙に日本民主党公認で旧大分県第1区から立候補して初当選を果たしたのと、その次の総選挙におけるこの藤山の場合の2例を数えるのみである) 。 外相として日米安保改定と日米地位協定締結を成し遂げるも、その傍ら「日米安保は日中の踏み石にすぎない」とする親中派議員でもあり、外相在任中も日中貿易促進への「支持と協力」を再三表明していた。1970年12月に「日中国交回復議員連盟」を結成し、1971年10月には議員連盟団長として日本国と中華民国との間の平和条約を無効とする中華人民共和国との共同声明に調印したことで物議を醸したことがある。政界引退後も石橋湛山の後を継いで国際貿易促進協会第4代会長を務めるなど松村謙三・古井喜実らと共に日中国交正常化に心血を注いだ。 岸退陣後は総理大臣の座を目指して1960年7月の自民党総裁選にも出馬するも敗北(池田勇人が総裁に当選)。この総裁選を機に星島二郎・江崎真澄・小泉純也(小泉純一郎の実父)・福家俊一らを擁して岸派から分派、愛正会(藤山派)を結成した。 1961年、経済企画庁長官に就任。1962年の参院選に際しては、いとこでタレントの藤原あきを全国区に擁立。藤原をトップ当選に導く。1963年、自民党総務会長に就任。 1964年の総裁選、1966年の総裁選にも立候補をするが尽く敗北し、派閥維持の費用などで巨額の私財を政治につぎ込む格好となった。結果として藤山コンツェルンは解体されてしまい、資産の多くを失った。その後、藤山派が細っていくのと同時に、権力闘争にも興味を示さなくなったといわれる。 1967年に勲一等旭日大綬章を受章。1976年9月、総選挙に出馬せず政界を引退。衆議院議員選挙連続8回当選。
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衆議院議員に初当選
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1986年6月2日、衆議院解散。永田安太郎以来31年ぶりの地元保守系代議士の誕生を目指す岡崎市では、かつて稲垣実男派の県議であった中根鎭夫市長はじめ、自民系市議のうち一人を除いた全員が杉浦の支援に回った。7月6日の総選挙において、旧愛知4区順位3位で初当選した。 1988年の岡崎市長選は、前年の葵博で市制70周年記念事業事務局長を務めた石原武建設部長が中根市長の3選阻止に立ち上がった。「骨肉の争い」と評されたこの年の市長選において、自民党岡崎市支部長の柴田尚道前県議は石原を支持し、保守系市議は自民クラブの推す中根派と市政クラブの推す石原派に真っ二つに割れた。保守勢力のまとめ役となるべき杉浦は中根の支持に回り、稲垣実男も中根を支援。これに対し浦野烋興が石原を支援したため、自民党派閥の代理戦争の様相も示した。岡崎市選出の自民党県議も二つに分かれ、柴田紘一は中根につき、内田康宏は石原についた。7月31日、中根は3選を果たしたものの、石原を支持した旧中野四郎派の人々が杉浦から離れ、のちの現金買収事件を生む遠因となった。 同年9月2日、金のかからない政治、選挙の実現を目指し、武村正義、鳩山由紀夫らと共に政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成。
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衆議院議員に初当選
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2005年の第44回衆議院議員総選挙に再び香川1区から立候補し、再度、平井に敗れたが、重複立候補していた比例四国ブロックで復活し、初当選した。 2006年1月28日、民主党香川県連代表に就任。同年4月7日の民主党代表選挙に小沢一郎と菅直人が立候補し、小沢が新代表として選出された。この選挙で小川は小沢に投票した。 2009年5月11日、小沢一郎が民主党代表辞任を表明。小沢の辞任に伴う代表選挙(5月16日実施)では岡田克也の推薦人に名を連ねた。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では香川1区で平井を破り、初めて小選挙区で当選した(比例復活で平井も当選)。総選挙後に発足した鳩山由紀夫内閣で総務大臣政務官に就任し、菅直人内閣まで務めた。 2010年7月11日の参院選香川県選挙区(改選数1)に自民党は全日本空輸従業員の磯﨑仁彦を擁立。民主党・社民党・連合香川は3者共闘で無所属の元高松市副市長の岡内須美子を推薦するも、磯崎が初当選した。7月12日、小川は岡内落選の責任を取り、県連代表を辞任した。 2011年8月26日、菅直人首相が民主党代表辞任を正式に表明。菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日実施)では前原誠司の推薦人に名を連ねた。1回目の投票で前原に入れた小川は、決選投票では野田佳彦に入れた。同年12月26日発行の『AERA』の特集「アエラが選ぶ日本を立て直す100人」に選ばれる。 2012年9月の民主党代表選挙では、第2次野田改造内閣の現職閣僚である環境大臣の細野豪志に出馬を要請したが、原発事故担当相でもある細野は福島の復興に引き続き取り組みたい意向を示し、出馬を断念した。 同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、香川1区で平井に敗れたが、重複立候補していた比例四国ブロックで復活し、3選。 2014年2月23日、民主党県連の定期大会が開かれ、県連代表の玉木雄一郎の任期満了に伴い、新代表に小川が再び選出された。 同年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では、香川1区で平井に敗れたが、重複立候補していた比例四国ブロックで復活し、4選。この選挙で民主党代表の海江田万里が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた代表選挙では、元幹事長の細野豪志の推薦人に名を連ねたが、細野は決選投票で岡田克也に敗れた。 2016年3月27日、民主党に維新の党が合流し、民進党が結成。小川は同党県連代表に就任。県連は同年の参院選に向けて候補者擁立を目指したが難航。同年4月、日本共産党公認の党県常任委員の田辺健一を統一候補にする方向で調整に入った。しかし4月25日、民進党県議の岡野朱里子が立候補を表明すると、岡野での一本化に傾いた。党は事務所の立ち上げやポスター掲示などを急ピッチで進めた。全国で野党統一候補の擁立が進む中、共産党中央は、自党候補が皆無なことに態度を硬化。5月16日、小池晃書記局長は「田辺を野党統一候補にすることを実現したい」と述べた。5月19日夕方、小川は岡野に、党として立候補取りやめを決めたことを電話で伝えた。約2時間後、岡野はこれを承諾。翌5月20日、小川と岡野はともに記者会見に臨み、岡野の立候補辞退を正式に発表した。全国に32ある1人区で唯一、香川県選挙区で共産党公認の野党統一候補が立つこととなった。7月10日の参院選で田辺は現職の磯﨑仁彦に大敗。7月11日、小川は県庁で記者会見し、独自候補擁立を断念したことについて謝罪し、県連代表を辞任する意向を表明した。 同年9月15日の民進党代表選挙では前原誠司の推薦人に名を連ねたが、前原は蓮舫に敗れた。 2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明。蓮舫の辞任に伴う代表選挙でも小川は前原を支持。9月1日、前原は枝野幸男を大差で破り、代表に選出される。翌9月2日、前原は都内のホテルの一室にこもり、代表選で自陣営の選対本部長を務めた大島敦、小川らと党役員人事案を練り上げた。9月5日、民進党は両院議員総会を開き、前原が提示した役員人事を承認した。小川は役員室長に就任した。
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衆議院議員に初当選
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「青山周平 (政治家)」の記事における「衆議院議員に初当選」の解説
2012年(平成24年)12月16日の第46回衆議院議員総選挙に愛知12区から自民党公認で立候補。初当選を果たすも、民主党現職の中根康浩、日本維新の会新人の重徳和彦の両名に比例復活を許した。 2014年(平成26年)11月21日、衆議院解散。公示日前日の12月1日、民主党の海江田万里代表は中根康浩に比例単独に回るよう電話で告げ、中根は党の指示に従った。序盤の情勢調査では青山が優位だったが、事実上、維新の党の重徳に一本化されたことで覆った。12月14日、第47回衆議院議員総選挙執行。小選挙区では重徳に敗れ、惜敗率89.778%で比例復活により再選。選挙期間中に新聞社が行った出口調査によれば、青山に票を投じたのは自民支持者の68.7%、公明支持者の67%にとどまった。いずれも3割弱が重徳に流れたことが明らかとされた。
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衆議院議員に初当選
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2012年8月8日、野田佳彦首相が、自民党が要求した衆議院解散の確約について「近いうちに国民の信を問う」と発言。これにより、消費増税関連法案成立後の遠くない時期に解散総選挙が行われるとの観測が一気に強まった。愛知県では大村秀章知事が8月10日、大阪維新の会との連携を目指して政治団体「中京維新の会」を設立したと発表した(総務省への政治団体登録の届け出は同年6月)。 大村の動きを受け、重徳が最初に相談をしたのは愛知12区の元衆議院議員の杉浦正健であった。同年8月、岡崎市矢作町の喫茶店で杉浦と面会。「先生の意に添わないかもしれないが、どうしても大阪維新の会から出たい」と述べると、杉浦は「道州制の夢を引き継いで実現させると言って、堂々と出馬すればいい」と助言した。8月20日、出身地の愛知11区からではなく、愛知12区から出馬する意向を明らかにした。続いて8月25日、元衆議院議員で旧一色町長の都築譲が、愛知12区から立候補する意向と国民の生活が第一に公認を申請していることを明らかにした。9月8日、大阪維新の会は所属議員を集めた会議で、国政進出を目指すことを正式に決定。9月28日、日本維新の会が結党。重徳は同党に入党。 同年12月16日の総選挙に愛知12区から日本維新の会公認、みんなの党推薦で立候補。選挙区では自民党の青山周平が初当選した。非自民票は主に民主党の中根康浩、日本維新の会の重徳、日本未来の党の都築譲の間で分散される。民主党は比例東海ブロックで4議席を獲得し、次点で敗れた中根は4番目の惜敗率(89.70%)により比例復活で当選した。藤井孝男を比例単独1位、岐阜4区の今井雅人を重複2位、その他の候補者を3位の扱いとした日本維新の会は4議席を獲得。重徳は残り2議席にすべり込み、初当選を果たした。居所を岡崎市上六名町に構える(その後転居)。 2014年7月、日本維新の会の分党に際しては橋下徹大阪市長による新党結成を目指すグループに参加。同年9月、結いの党・日本維新の会の合流により維新の党の結党に参加した。 同年11月21日、衆議院解散。民主党前職の中根康浩は愛知12区での立候補が内定していたが、非自民候補の共倒れを懸念した維新の党は民主党に対し、愛知4区・12区以外に候補者の擁立を予定していた3選挙区から撤退する代わりに、愛知12区の中根の立候補を見送らせるよう働きかけた。民主党はこれに応じ、中根は公示日前日の12月1日、代表の海江田万里と代表代行の岡田克也から比例東海ブロック単独立候補への鞍替えを命じられた。連合愛知は12区について自主投票とし、一部の労組は白票を投じるよう指示した。12月14日、第47回衆議院議員総選挙執行。重徳は青山を約1万3千票差で破り、初めて選挙区で当選し、再選(青山も比例復活)。
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