衆議院議員としての活躍
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胎中は1924年(大正13年)の第二次護憲運動時、政友会の院外団として活躍する。そして同年5月10日の第15回衆議院議員総選挙に神奈川県第五区(高座郡、愛甲郡、津久井郡)から護憲三派候補として立候補する。日本帰国当初は政治家になるつもりがなかった胎中であったが、護憲運動に参加する中でやはり衆議院議員に立候補しなければならなくなった。しかしこの時の選挙は9票差で落選する。更に同年夏にも高知県第二区(安芸郡、香美郡)補欠選挙に立候補するもやはり破れた。 1927年(昭和2年)4月に成立した政友会の政党内閣である田中義一内閣では、胎中は内閣嘱託として書記官長鳩山一郎を補佐した。そして1928年(昭和3年)2月20日投票の第16回衆議院議員総選挙に、神奈川5区(高座郡、愛甲郡、津久井郡、足柄上郡、足柄下郡)から立候補し初当選する。以後、衆議院議員選挙に4回当選を果たす。 衆議院議員としての胎中は、重要政策課題として昭和初期の不景気克服のため、農林水産業と地方都市の商工業振興を主張し、とりわけ当時の日本人口の7割を占めていた農林水産業従事者の生活の安定と向上のために尽力した。また胎中は志を同じくする議員らとともに農政会を結成し、農林水産業の政策に対する研鑽を深めていた。
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衆議院議員としての活躍
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「清水宗徳 (政治家)」の記事における「衆議院議員としての活躍」の解説
これと前後して、宗徳は政治にも進出するようになった。1879年には埼玉県議会議員に選出され、さらには1890年の第1回衆議院選挙に立憲自由党から出馬し当選、衆議院議員となった。 衆議院議員としての功績で最大のものは、1890年に地租の徴収期限を大幅に緩和する改正案を立案し、これを通したことであった。だがむしろ宗徳の名を政界で知らしめたのは、所属していた立憲自由党→自由党の勢力基盤を著しく拡大させたことであった。 自由党は今で言う野党にあたる「民党」で、立憲改進党とともに自由民権運動推進派として多くの民衆から支持されて来た。しかし第2次伊藤内閣の時に自由党と立憲改進党は袂を分かち、敵対するようになってしまう。 ここで困ったのが埼玉県の自由党勢力である。長く埼玉県は立憲改進党の地盤であったため、後釜の進歩党に席巻されてしまい、入間郡の片隅で孤立してしまったのである。 これに宗徳は自由党の党員として立ち上がり、県内での勢力拡大に尽力。これによって自由党は1898年の第5回衆議院議員総選挙では進歩党と議席を二分するところまで行った。このために宗徳は進歩党から実力者として大変に恐れられ、「爆裂弾」という異名を奉られるに至る。 もっとも宗徳自身は2期で衆議院議員を辞職しており、これらの地盤拡大などは全て地元、在野において行ったことであった。逆に早く政界から去ったために政争に巻き込まれず、自分の思うような地域振興事業に専念出来たとも言える。
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