衆議院解散、長男を擁立
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1980年5月16日、第2次大平内閣に対する内閣不信任決議案を日本社会党が提出。当時の自民党は前年の四十日抗争を経て分裂状態にあり、党内の反主流派の動向が予測できない状況にあった。それでも内田は不信任決議の否決を露ほども疑わず、同日午後の会合で「衆院の解散は82年秋ぐらいじゃないですか」と発言していた。不信任決議可決後の午後7時6分、大平内閣は臨時閣議を開き解散を決定。 同年5月17日午前10時、市役所の市議会「自民クラブ」の控室に議員約30人が急ぎ足に集まった。この緊急集会で、午後から代表が自民党県議3人に意向を打診しに行くことが決まった。衆院選出馬の意思を訊かれた柴田尚道と中根鎭夫は「アリバイづくりに来たということか。見えすいたことを」と思いながらもそつなく対応した。中根薫は「長男の康宏では無理だ」と気乗り薄だったが、協力を約束した。午後4時から市役所内で協議は再開。「明日の岡崎をきずく会」自民クラブ支部会が開かれ、内田か長男の内田康宏かどちらかを立てることで話がまとまる。内田の息のかかった岡崎市総代会長連絡協議会はこの日臨時会を開き、康宏擁立を早々と決議した。康宏は同日の夜遅く、当時の雇い主だった安倍晋太郎に相談。安倍は「福田派の中で波風を立てるようなことはやめてほしい。見送れないか」と答えた。 5月18日、康宏は朝9時台の新幹線に乗り帰郷。午後4時頃、内田の自宅に内田喜久、康宏、後援会幹部ら5人ほどが顔をそろえた。康宏が安倍から見送るよう諭されたことを伝えると、幹部の一人は「ここでやめると、おやじ(内田)の面目はまるつぶれだ。信用問題にも関わる」と声を荒らげた。午後6時、後援会の総会が開かれ、康宏擁立が満場一致で決まる。会場の三河別院には、発足が内定していた「内田康宏を育てる会」の入会申込書の束があらかじめ運び込まれていた。康宏は総会には出席せず東京に戻り、渋谷区富ヶ谷の安倍邸を再び訪れた。無言の安倍に対し、康宏は「私が出ないと父のイメージがまるつぶれになります」と昼間の自宅での討論を受け売りした。 5月19日に衆議院は解散し、史上初の衆参同日選挙が行われることとなった。同日、「明日の岡崎をきずく会」は康宏に衆院選への出馬を正式に要請した。 5月20日午前、内田は上京。山王グランドビル9階の安倍事務所で康宏とともに安倍と面会した。このとき安倍事務所から歩いて15分ほどのところにある清和会事務所はごった返し、とても康宏どころではなかった。同日夕方、康宏は岡崎市役所で記者会見を開き、無所属での立候補を表明した。 出馬に難色を示したのは安倍晋太郎だけではなかった。仲谷義明愛知県知事は3度にわたり内田に長男康宏の擁立を思いとどまるよう助言。前知事の桑原幹根も「喜久さんの息子などあぶくにも満たない」と言って遺憾の意を表した。中野派の柴田尚道県議さえ、仲谷の力を借りて出馬断念を働きかけようとした。出馬の噂を聞いた清和会事務局長の胡伸哉は「あの子(康宏)はいい子だったのに、親父もとうとう墓穴を掘った」ともらした。
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