法曹から政治家へ転身
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1919年、神戸地方裁判所配属中に聞いた犬養毅の演説に感銘を受け、強く政治家を志すようになった。1920年、中井は衆議院議員砂田重政の勧めで司法官を辞めて弁護士となり、砂田と共同で法律事務所を運営した。1923年9月、中井は兵庫県議会議員選挙(葺合区選挙区)に革新倶楽部の候補として立候補し、当選。翌1924年、県議会市部会(当時、兵庫県議会は市部会、郡部会、連帯部会の3部制をとっていた)副議長に選出された。1925年、立憲政友会への合流を図った犬養毅に従い、立憲政友会へ移籍。1928年、第16回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から立憲政友会の候補として立候補し当選。しかし派閥の領袖が幅を利かせ、言いたいことを思うように言えない国会のあり方に違和感を覚え、弁護士として野に戻るほうがよいと判断、1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙への立候補を辞退した。中井は後継候補として勝田銀次郎を推したが1932年の第18回衆議院議員総選挙では今度は勝田が立候補を辞退したため再び立候補。以降終戦まで衆議院議員を務めた。 1936年には衆議院の石油委員会・液体燃料委員会の委員を務めた。中井はその関係から石油のほぼ100%を輸入に頼る日本がアメリカ・イギリスと戦争をしても勝てないという持論をしばしば展開し、発言記録が警察の手に渡って特別高等警察から警告を受けたこともあったと述べている。 1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選している。その後は翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 1940年、衆議院議員の斎藤隆夫が反軍演説を行ったとして除名された際の懲罰委員長を務めた。中井曰く懲罰委員会開催を決めた小山松寿衆議院議長を「演説のどの部分の、どういう点が懲罰事犯に値するというのか」と問い質すなど、斎藤寄りの立場をとった。中井によると戦後、これらのことが作用して戦後、第一次公職追放解除(1950年10月)の対象に選ばれた。中井は、斎藤に自発的に議員辞職すべきかと相談されたことがあり、「断じて辞職してはいけません。代議士として殺されても、言論の自由を守るべきです。辞めることは自分で非を認めることになる。男らしく堂々と除名処分を受けなさい」と助言したとも述べている。
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