第2次第2掃海隊 (石野隊; 鎮南浦)
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「日本特別掃海隊」の記事における「第2次第2掃海隊 (石野隊; 鎮南浦)」の解説
第2掃海隊(第2次)は10月25日に新編成されて、11月3日15時に下関唐戸を出港した。途中で、上記のように群山で活動していた第4掃海隊(萩原隊)から残置されていた掃海艇4隻(MS10,12,22,57)と合流し(手続き上の編入は2日)、7日13時45分に鎮南浦に到着した。 当時、同地ではギアリング級駆逐艦「フォレスト・ロイヤル」を旗艦として、アーチャー(Stephen M. Archer)中佐を指揮官とするTE95.69鎮南浦掃海任務隊が編成されており、石野隊はこれに編入されて、8日より掃海を開始した。 同地では、元山で能勢隊が提案したようにLCVPによる事前掃海が導入されており、まず米海軍の水中処分隊が機雷を捜索拘束し、次いでLCVPによる略掃を行い、その後日本の掃海艇により精密掃海を実施するという手順で進められた。 その後、15日12時には第5掃海隊(大賀隊)が鎮南浦に到着し、17日付けで石野隊に編入された。これにより、石野隊は、朝鮮水域における一番大きな掃海部隊となった。また同日には、試航船として泰昭丸が同地に到着したが、この際に野菜類や日本人好みの貯蔵品類を積んできており、特に野菜類は現地の米軍でも不足気味で補給を受けられていなかったことから、生気を取り戻すことができた。 20日には鎮南浦の掃海完了が発表された。協同して掃海作業を行っていた連合軍の掃海艇はアーチャー中佐とともに安州へと転進していったが、同地は安全が確保できていなかったことから、石野隊のみが鎮南浦に残されて、既掃海水道内の日施掃海を行っていた。 26日、石野隊は「カーミック」艦長の指揮下に入ることになった。28日、旧第5掃海隊(大賀隊)は石野隊から分離されて第4掃海隊(第2次)として改編されることになり、30日12時、鎮南浦を出港し海州に向っていった。また30日には、試航を終えた泰昭丸が佐世保に帰投していったほか、石野隊は「トンプソン」艦長の指揮下に入ることになった。 当時、陸上では中国人民志願軍の介入によって国連軍は後退を強いられており、鎮南浦も危険になってきていたことから、12月2日、アーチャー中佐より、石野隊は日本本土に引き上げるように指示があり、同日15時30分、鎮南浦を出港した。翌3日には平壌から国連軍が撤退しており、際どいタイミングでの帰還であった。 4日には、アーチャー中佐より、帰国に際して大賀隊と合流するように指示があったものの、荒天のために果たせず、7日午前11時、下関に帰投した。
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