辻村楠造とは? わかりやすく解説

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辻村楠造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 03:56 UTC 版)

辻村 楠造(つじむら くすぞう、1862年2月4日(文久2年1月6日[1][2]) - 1952年昭和27年)12月28日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。

経歴

土佐国土佐郡潮江村(現高知市[3]で、土佐藩士・辻村光盛の長男[1]として生まれる。1879年(明治12年)7月、陸軍教導団を卒業[1]。同年9月、軍曹に任官[1]。1882年(明治15年)2月、曹長に、1885年(明治18年)5月、歩兵少尉に進み歩兵第14連隊となる[1]。1886年(明治19年)2月、教導団小隊長に就任し、1888年(明治21年)11月、歩兵中尉に昇進[1]。1891年(明治24年)12月、陸軍経理学校に第1期監督学生として入校[1]。1893年(明治26年)11月、同校を卒業して監督補に任官し、近衛師団監督部第2課長に就任[1]。1895年(明治28年)11月、三等監督に昇進し台湾総督府付となる[1]。同年12月、経理学校教官に転じた[1]

1899年(明治32年)7月、陸軍省経理局課員に就任し、同年12月、二等監督に進んだ[1]。1900年(明治33年)5月、経理局衣糧課長に就任し、経理局主計課長に転じ、1902年(明治35年)11月、一等監督に昇進した[1][4]。1903年(明治36年)5月、経理学校長に就任し、同年12月、一等主計正に任官[1][4]

1904年(明治37年)7月、第10師団経理部長に発令され日露戦争に出征した[1][2][4]。1905年(明治38年)1月、遼東守備軍経理部長に転じた[1][2][4]。1906年(明治39年)9月、関東都督府経理部長に就任し、1907年(明治40年)9月、主計監に進級[1][4]。1908年(明治41年)4月、近衛師団経理部長となり、1909年(明治42年)8月、経理局長に就任[1][2][4]。1913年(大正2年)3月、主計総監に進み、1914年(大正3年)5月に待命となり、同年8月、 予備役に編入された[1][2][4]

その後、戦友済生生命保険顧問、日本繊維化工社長、帝国在郷軍人会常務理事などを務めた[3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

位階
勲章等

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、104頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』474頁。
  3. ^ a b 『高知県人名事典 新版』498頁。
  4. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』511頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」163頁。
  6. ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。



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