厚生省によるフィラリア症流行地対策の本格化
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「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「厚生省によるフィラリア症流行地対策の本格化」の解説
1948年(昭和23年)から数年間にわたり八丈小島でのフィールドワークと研究を実施した佐々を中心とする伝研の関係者は、これまでの基礎研究によって得られたデータや経験に基づいて『八丈小島におけるマレー糸状虫症及び媒介蚊の地域的駆除の試み』と題する論文を1957年(昭和32年)に発表した。その中でフィラリア症の地域的駆除についての見解と今後の対策について次のように述べている。 八丈小島におけるマレー糸状虫症駆除作業計画(1956年8月実施)項目目的対象手段基礎調査患者・保虫者の確認媒介蚊調査 住民環境 夜間採血・昼間検診成虫および幼虫の採集・同定 マレー糸状虫駆除感染源除去患者・保虫者の治療 住民 スパトニン投与 媒介蚊駆除幼虫対策 天水槽集落内水たまり海岸のロックプール 施設改良、メダカ放養水たまり除去、DDTペースト投入DDT粉剤ヘリコプター散布 成虫対策 人家内屋外 DDTペースト残留噴霧DDT粉剤ヘリコプター散布 糸状虫症(フィラリア症)の流行を阻止するには、「保虫者の駆虫」または「媒介蚊成虫または幼虫の駆除」、このいずれか一つでも完全に行えば、理論上その感染経路が遮断されて目的を達成できるはずである。しかし現実には、熱発作を恐れてスパトニンの服用に抵抗感を持つ患者が一定数いるように、いずれも完全を期するなど不可能であると考えられる。 そこで実行可能な範囲で考えられる合理的な方法を複数併用して実行した。八丈小島において実際に行った具体的な試みは以下の内容である。 保虫者および媒介蚊の基礎調査 保虫者のスパトニンによる駆虫 天水槽への天敵の放養 人家内のDDT残留噴霧 集落内水溜まりなどのボウフラ発生源に対するDDTペーストの混入 海岸のロックプール一帯へのDDT粉剤ヘリコプター散布 これらの結果、いずれも予想したような成果をあげた反面、同年12月の再調査では、スパトニン服用の不徹底から依然として保虫者がいること、DDT散布からおよそ2か月後より殺虫効果が薄れ始め、蚊やハエなどの活動が再開されたことが確認され、糸状虫(フィラリア)の根絶のためには、これらの総合的な対策を年に数回の割合で繰り返し定期的に実施する必要があると考えられる。 このようにまとめており、ここで提唱された「スパトニンの服用による駆虫」と「媒介蚊(ボウフラを含む)の駆除」の2つを総合的に繰り返し実施するという方法がモデルとなり、その後、日本各地のフィラリア症流行地で実施されていくことになった。 佐々は何度も八丈小島へ通い研究を重ね、その病態の解明とスパトニンによる治療、そして感染源の駆除方法を見出したが、伝研が東京大学の機関であるとは言え、一研究者が毎年訪問して治療を行う事には限界があった。かねてより佐々は行政へ全権を委ねようと、これまでに得たデータを携え何度も都庁を訪れていた。離島とは言え八丈小島は東京都の一部であり、行政主導による対策の必要性を訴えたが、毎回、予算がないの一点張りで話が先に進まなかった。佐々はある時「東京都は八丈小島のマレー糸状虫を天然記念物にするつもりなのか」と予防部長に詰め寄ったという。 佐々ら伝研の関係者は八丈小島での研究と並行して1953年(昭和28年)12月の奄美返還以降、奄美大島でのバンクロフト糸状虫の調査を行っており、同様に鹿児島県下でフィラリア研究を行っていた鹿児島大学の佐藤八郎、尾辻義人らと1957年(昭和32年)より話し合いを行い、翌1958年(昭和33年)4月より奄美大島の4つの各地区で、100名ほどの住民を対象にしたスパトニン投薬による本格的なフィラリア駆除が開始された。これは文部省の科学研究費の補助を仰ぎ実行されたものであった。その後も各研究機関や医療関係者らは予算的な問題を抱えながらも努力を重ね、愛媛県佐田岬半島や、長崎県五島列島での集団検診やDDT噴霧など、フィラリア症防圧に向けた対策が日本の各地で行われていった。そのような中、フィラリア症対策の国家事業化に向けた要請を伝研の佐々、長崎大学の北村、鹿児島大学の佐藤らは厚生省に何度も申し出ていた。 防圧活動の成果が日本各地から届く中の1961年(昭和36年)8月、太平洋学術会議がハワイのホノルルで開かれ、日本からは佐々をはじめ厚生省、各大学、沖縄からは琉球衛生研究所の担当者が参加した。議題に挙げられたフィラリア対策の各国の現況などが報告され、日本でのスパトニンの投与法とDDT残留噴霧法のデータとその効果が示されると、座長のカリフォルニア大学のJ・F・ケッセルはこれを絶賛し、早速ケッセルはそれを英文の原稿にまとめ、ハワイ滞在中に佐々らに内容のチェックを依頼した。このように日本のフィラリア対策の実績が国際的に評価されはじめた1962年(昭和37年)、フィラリア対策は厚生省認可の国庫補助事業となり、日本全国のフィラリア症流行地を対象に大規模な対策が始まった。
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