夜間採血
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「夜間採血」の解説
無医村である八丈小島の人々にとって大学の医療研究者が来島することは、九大の望月と井上以来36年振りのことで佐々と加納は島民から好意的に迎えられ、調査場所兼宿泊場所として鳥打村役場が提供された。村役場は坂道を上った鳥打小中学校の庭の一角にある小さな小屋で、入口に「鳥打村役場」の表札が掲げられてはいるが簡素なものであった。 その夜、鳥打小中学校の校庭で佐々と加納の歓迎会が開かれた。東京から2人の医者がバクを調べるためにわざわざ来たことを喜んだ島民たちは、小舟を出して海に潜りトコブシやウニ、ナマコ、さまざまな魚介を採ってきた。さらに島の名産のサツマイモを使った家庭料理で2人をもてなした。このサツマイモから作られた「島酒」と呼ばれる強い自家製芋焼酎が佐々と加納のコップに注がれ、島の青年からかわるがわる献杯された。これ以上飲めないと断っても、後ろから羽交い絞めにされコップを口にあてがわれ、飲み干すまで許さないという頑固さであったが、隣にいた名主はこうした荒っぽさが八丈小島で最高の歓待だと教えてくれたという。 宴が盛り上がってくると島の人々は民謡を唄い始めた。 〽 ハアー 沖で見たときゃ 鬼島と見たが 来てみりゃ小島は 情島(なさけじま) ショメショメ これは八丈島本島で歌われる民謡『八丈ショメ節』(東京都無形文化財)の歌詞の一部を小島に変えたもので、この夜は大人も子供も一緒になって唄われた。現地の人々とのこうした接し方は風土病調査を円滑に行う上で重要なことであり、佐々自身も自著『熱帯への郷愁』の中で、現地の人々の文化を尊重し、付き合いを積み重ねていくことが絶対に必要な条件であると書いている。佐々をはじめとするフィラリア撲滅に携わった研究者たちが兼ね備えていた庶民性があったからこそ、日本国内のフィラリア症克服に繋がったのだろう、と作家の小林照幸は指摘している。 陽気に唄いながら島の男たちの酒の量はさらに増えていった。しかし佐々と加納は夜間に行う採血作業を控えていたため酔うわけにはいかなかった。 採血は午後9時過ぎより酔いつぶれかけている青年から始められた。耳たぶに注射針を刺して少量の血液を採り、スライドグラスに塗る作業を続けた。青年たちは「痛いぞ」と怒鳴るが、酒に酔って充血している耳たぶからの採血はかえって都合がよかったという。歓迎会参加者全員分の採血が終わると、名主と数人の青年らの案内で鳥打村の家々を1軒ずつ訪ね、女性や子供、老人を起こして採血を行った。当時の八丈小島では自家発電は午後7時半までで、それを過ぎるとほとんどの人は就寝していた。佐々らは急な斜面の岩だらけの狭い道をカンテラを照らしながら1軒ずつ訪ねて採血を続けたが、案内役の青年らは次々に酔いつぶれて道端で寝てしまい、最後の1軒の採血が終わった午前1時の時点で起きていたのは佐々と加納と名主の3人だけであった。しかし佐々と加納はまだ寝るわけにはいかなかった。急いで宿舎の役場へ戻りスライドグラスに塗布した血液をギムザ染色しなければならない。5パーセントのギムザを入れた精製水に1時間漬けて赤血球などを除去することでミクロフィラリアだけがスライドグラスに残る。こうすることによって顕微鏡で見やすくなり、また防腐剤的な役目も果たし数年間は腐ることを防げる。詳しい観察は翌日以降でも行えるが、急いでギムザ染色して血液を乾燥させないと、7月下旬の高温多湿なこの時期では血液が腐ってしまう恐れがあった。 佐々と加納は夜を徹して37名分の採血サンプルをギムザ染色し、100枚近いスライドグラスを役場の床に並べて乾燥させた。夜が明ける前に作業は終わり、一息ついて校庭に出て見上げると満天の星が夏の夜空いっぱいに広がっていたという。翌日、スライドグラスを1枚1枚顕微鏡で観察すると、採血した37名中の7名にミクロフィラリアが確認された。八丈小島のバクの正体はやはりフィラリアであった。ただし佐々はこのミクロフィラリアをバンクロフト糸状虫のものと思い込んでいた。この時点で知られていた日本国内のリンパ系フィラリアは、隣接する八丈島や伊豆諸島を含め、すべてバンクロフト糸状虫によるものであり、今回の八丈小島の調査で見たミクロフィラリアが他種であるとは思いもよらなかった。しかしこの最初の訪問時に象皮病の患者はいるが陰嚢水腫や乳糜尿の患者が見られないことを不思議に思ったが、佐々と加納もその理由については分からなかった。 佐々はアメリカ留学のこともあり本土へすぐ戻ることにしたが、名主や長老から「内地の先生は1度来るだけで、2度とこの島へは来てくれない」と言われる。長老たちは過去の京大や九大による1回限りの訪問を覚えていたのである。それに対して佐々は「この島からバクがなくなるまで、私が生きている限り何度でも来ます」と応じた。その後、実際に佐々は20回余りも八丈小島を継続的に訪れ研究や防圧を行い続け「病気がなくなるまで何度でも来ます」の言葉どおり、バク病の最後を本当に見届けることになったのである。
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