事業家への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:03 UTC 版)
1896年(明治29年)日清貿易研究所卒業生である香月梅外、河北純三郎とともに筑紫洋行(筑紫弁館)を創立。 1900年(明治33年)、義和団の乱で焼き討ちにあった。筑紫洋行は紫禁城門前に位置していたからである。それでも派遣軍の物資調達に尽力した。日露戦争では兵站部を担当、軍需品の確保や輸送に当たった。 筑紫洋行を北清事変で失って以後、裸一貫からの出直しであったが、大阪で白岩龍平らとともに大東亜汽船株式会社を創立。日露戦争では思いがけず日本が勝利して日本が後の南満州鉄道を獲得することとなった。しかし社宅がなかったので、社宅を建てるように満鉄から依頼された。1905年(明治38年)満州に赴き、石炭販売および陸軍用品払い下げ販売業に従事する。そのかたわらガラス工場を開き、1908年(明治41年)貸家を建築して、満州鉄道員の社宅を建設していきながら瀋陽建物株式会社を設立する。奉天春日町はすべて向野の所有であった。同時に、満州市場株式会社を設けて中央市場をつくる。そして、熊本県出身の深水十八、中国人らと経営共同の最初の日支合弁正隆銀行を設立した。 1917年(大正6年)向野は瀋陽化学工業株式会社や石炭・石油販売業を手がけ、奉天製氷株式会社の監査にも就任。ウランバートルへの道路計画を進め、その路線に沿ってガソリンスタンドをつくろうとした。 最終的に総合商社茂林洋行の社主となった。茂林洋行は、中国人相手に商業を展開する企業であり、保険会社の代理店ーも引き受けていた。奉天商工会議所副会頭を6年間務め、会頭は満鉄総裁、自席が向野堅一であった。実際は商工会議所の実権を握っていた。商工会議所の産業部長、奉天聯合町内会長にもなった。日本で初めでブリキを造りたいとのことで、八幡製鉄所(現新日本製鉄株式会社)に出資してくれという依頼もあった。「満州で儲けた金は満州でつかう」と言ってそれを断り、正隆銀行の創立に使った。創立した多くの会社では中国人や日本人たちがともに仕事をし、ときどき皆で集まり日本人家族、中国人家族を含めてパーティーを開くなど、民族的な差別感は一切なかった。
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