直木賞受賞までの経緯
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「佐藤愛子 (作家)」の記事における「直木賞受賞までの経緯」の解説
初婚に破れた佐藤愛子は、資産家の子息である田畑麦彦と再婚し、一女を設けた。 田畑麦彦は、そもそもは新人賞クラスの小説家であったが、結婚後は、事業家としての活動に力を入れるようになっていった。 その事業だが、いっときは軌道に乗ったようにも思えたが、田畑の、ある意味、特殊な金銭感覚が禍して、結局は大きな借財を抱えるに至る。 佐藤愛子は、その田畑麦彦と離婚をする。田畑自身の説明によれば 、「借金の火の粉が妻に降りかからないための偽装離婚」のはずだった。 だが、いざ離婚してみると、その直後、田畑は、銀座で飲食店を経営する女性と、ちゃっかり入籍していた。それでも人のいい佐藤愛子は、元夫の莫大な借金を返すために、身を粉にして働き続ける。 全国のテレビ局のワイドショーのご意見番から、作家としての本来の仕事まで、馬車馬のように走り続けた。そんな状況下で一気に書き上げた小説『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞する。1969年、佐藤愛子45歳のときであった。 作品は、文庫本で50ページほどの短編小説だ。主人公の「私」が、元夫の借金返済のために東奔西走するという、実話をもとにした、奮戦記である。以下がそのラストシーン。桃子というのは、主人公の愛娘。 ―― 暮れなずむ空の下で渓流のように車が走っていた。歩道橋に上って南の方を眺めると、既に暮れた鼠色の町の果からヘッドライトをつけた車が際限もなく湧き出して来て、まるで無人車のように機械的な速度でまっしぐらに走り、あっという間に足の下に消え去る。警笛も人声も聞えぬ、ただ轟々と一定の音のかたまりが、環状七号線をゆるがしている。 「うるさいぞオーッ、バカヤローッ!」突然、私は歩道橋の上から、叫んだ。「桃子、あんたもいってごらんよ」桃子は喜んで真似をした。「バカヤローッ、うるさいぞオーッ」私と桃子の声は轟音の中に消えた。私はどなった。 「いい気になるなったら、いい気になるなーッ」車は無関心に流れていた。沿道に水銀灯がともった。轟々と流れる車の川の上で、私と桃子は南の方を向いて立っていた。終 ―― (『戦いすんで日が暮れて』佐藤愛子著より抜粋) バカヤローッ、という台詞が読者に鮮烈な印象を与える。 その後も、佐藤愛子は、多くの作品を書き、数々の賞も受賞している。だが、この『戦いすんで日が暮れて』が、彼女のもっとも素晴らしい作品である、と評する識者がいる。「なんといってもその文章に勢いがある」、というのが、この識者の視点である。 佐藤愛子は、本当は、友人である芥川賞作家 北杜夫の『楡家の人びと』ような大作を書いて世に出ることを青図に描いていた。つまり、直木賞受賞に関しては、「ちょっと待った」というのが、佐藤愛子の本音であった。 以上が、直木賞作家 佐藤愛子誕生の経緯である。
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