直木三十三の悪ふざけ
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しかし、同年『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(文士採点表)をめぐり、その遊びの行き過ぎた誹謗に底意を感じた今東光と横光利一が怒り心頭した。 東光は、「人を軽蔑するのも甚だしいもんだ。若し、これを白日の下で、天下の衆に披露して憚らないならば、菊池寛こそ怪しむべき編集者である」として、「こんな下劣で野卑な『文藝春秋』に執筆しないことだ……損傷された作家達よ。この名誉恢復のために立ち給へ」と煽動した。 その採点表は、直木三十三(のち「三十五」と改名)が作成したもので、各文士の〈学殖〉〈天分〉〈修養〉〈度胸〉〈風采〉〈人気〉〈資産〉〈腕力〉〈性慾〉〈好きな女〉〈未来〉を、100点満点中の何点なのか採点し、60点以上を及第、60点以下50点迄を仮及第、80点以上を優等、と判別していた。 横光は、「俺は自分一個の腹立たしさではないのだ。こんなことを平気で文藝春秋がやつたと云ふことは第一、君(川端)と僕との顔をもうめちやくちやに踏み潰したんだ。君と俺との文藝時代の者達に対する苦境なんかも全然無視したやり方だ」と憤慨した。「文壇諸家価値調査表」で、川端は〈修養〉〈性慾〉だけが優等。東光は〈腕力〉100点、〈資産〉が「不良性」、〈好きな女〉が「女優」、〈修養〉〈人気〉が劣等。横光は〈修養〉〈度胸〉だけが優等で、〈資産〉の欄に「菊池寛」と書かれていた。 東光は『新潮』12月号の誌上で、この採点表掲載を許可した菊池寛と『文藝春秋』に対し、「日々、春秋社に寄集する大たわけ、一人で喧嘩の出来ない奴、鼻毛を読みながら生きてゐる四十男、才能のない文学狂、それらの中に坐して、恰もユーゴーを気取る菊池寛が、憂鬱にならないで嬉々としてゐるならば、余は彼の神経を疑ふのだ」と毒舌を吐いた。 さらに、「文壇の北条高時よ」と菊池に呼びかけ、「御身はもう衰亡の秋(とき)を自覚するべきである」とし、同誌への執筆拒否宣言と憤慨声明を以下のように述べた。 よくよく平凡な、よくよく賤しむべき新聞記者根性か、ポンチの酒袋のやうな裏長屋の女房根性かである。菊池寛自身が「近時の文芸欄が、楽屋落的であり、ゴシツプ的であり、仲間的であることは、いよいよ文芸欄の一般的価値を減じてゐるのではないか」と言ひながら、ゴシツプの問屋でおさまつてゐるでないか。それも好い。人格を無視して、人の名誉を徒らに損つて袂をやるくらゐなら、一層コウタリイであることの方が、どれほど美しいかしれないのだ。 — 今東光「文藝春秋の無礼」 横光も同様に、東光の家で書いた反駁の投書原稿を『読売新聞』に速達で送り、その足で川端の下宿に立ち寄り報告するが、それを知った川端に、東光は菊池の弟子でもなく世話にもなっていないから怒っても当然だが、君は可愛がってくれている恩人に背いてはいけないと諌められた。横光はなんとか昂奮を鎮め、川端と一緒に急遽読売新聞社に出向き、その原稿を撤回した。読売は返還を拒んだが、代りのものをその場で書いて渡し、事なきを得た。 東光の文が『新潮』12月号に掲載されるのを知った川端は、同月号の『文藝時代』に、「『文壇諸家価値調査表』を書いたのは直木三十三だ。(中略)ケシカラヌデタラメである」と表明しつつも、「しかしそれを掲載したからと云つて、例へば今東光君のやうに菊池寛氏や文藝春秋を責めやうとは、私は思はない」という一文を書いた。
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