直木孝次郎による再検討
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直木孝次郎は津田の分析を継承して、昭和34(1959)年4月に「神功皇后伝説の成立」を『歴史評論』に104号に発表した。 直木は、4世紀末に倭国が新羅を攻撃した歴史的事実と、神功皇后による新羅征討の伝承が一致することや、また津田の継体朝や欽明朝成立説では説明できないことが少なからず存在することを指摘したうえで、6世紀以降、特に推古天皇以降の史実との関係が深いことから、この頃に伝承が形成されたとしている。 高句麗の戦争伝承との関連 直木は、応神天皇期に大和政権が新羅を圧倒したことは事実また定説であり、神功皇后伝説と史実が無関係と論ずることはできないが、新羅征伐の記事に高句麗との戦争が記載されていないことに着目して、次のように考察した。倭国が高句麗と戦争したことは広開土王碑文などから史実であるが、だとすれば、記紀における新羅征討の箇所で、高句麗について記載がない、またはほとんど問題とされていないことは不自然である。4世紀末に倭国が新羅侵攻を行ったことは事実であるが、当時の倭国の最大の強敵は高句麗であったし、4世紀末から5世紀初頭における半島進出が伝承として記載されるのであれば、「建国まもない弱小の新羅に対する勝利よりも、強大勇武な高句麗との決戦の物語が伝承されるのが当然ではなかろうか」とし、新羅征討のみが伝承されたことと、高句麗との決戦が伝承されなかったことに着目し、三韓征伐の記述が成立した背景について、直木は、「5世紀末期以来、新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要」が出て来たとした。 神功皇后の実在性 また、神功皇后の実在性について、神功皇后は仲哀天皇の死後、政治軍事の実権を握り、応神天皇を出産したあとも、政権の中心にあったと記録されているが、推古天皇の即位以前にこのような女帝が登場する例がないことなどから、推古時代以降の女帝をモデルとして構想されたのではないかという説を提唱した。また、神功皇后自らが軍を指揮している点については、7世紀中葉に斉明天皇が百済救援と新羅攻撃のために北九州に出征したことが唯一の例であり、不自然であるとも指摘している。 このように直木は、新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した願望が原動力となって、新羅征討の物語になったとする。また、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するために、対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、物語の形成を促進したとし、津守氏と住吉神社や香椎宮など様々な伝承が加えたと主張している。三韓征伐説話は、新羅が日本へ朝貢していたことや、日本が朝鮮半島で闘った記憶、女帝・斉明天皇が新羅遠征のために筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作・脚色されたものとしている(上田正昭、直木孝次郎説)。 この直木による仮説と解釈については、井上光貞が同昭和34年に刊行された『真説日本歴史 二巻 万葉の世の中』の座談会において批判した。その後、藤間生大、米沢康、岡本堅次、吉井良隆、二宮正彦、塚口義信の研究が続いた。
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