実在性について
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尹良親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『浪合記』・『信濃宮伝』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、近世前期成立の偽書と推定されていることから、学界では机上の創作とされている。 この尹良親王についての伝説は、足利直義が知久祐超の娘あるいは妹を妾とし産んだ「之義」の伝説が元にあるとされる。しかし、『続本朝通鑑』に引用されている『信濃郷談』によれば、足利之義の伝説は信用に足らず、「則之良蓋宗良子乎(之良=之義は宗良親王の子か)」としているため、厳密には、初めに宗良親王の子の伝承があり、それと『鎌倉大草子』に記される「弘和年間に浪合で戦死した南朝某宮」が知久氏によって足利之義の伝承へと変化(この場合之義の戦死は応永3年3月24日(1396年5月2日)とされる)し、最終的に尹良親王伝説になったと考えられる。
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実在性について
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「スペツナズ・ナイフ」の記事における「実在性について」の解説
この「スペツナズナイフ(弾道ナイフ)」は、既に述べたように“ソビエトの特殊部隊(スペツナズ)において使用されるために開発された”とされ、"スペツナズナイフ"の呼称もこれに由来する。博物館に収蔵されているものも存在するが、実際に軍の制式装備品として開発・配備されていたかについては確たる証拠がなく、疑問点も多い。 この武器についての情報が西側に知られたのは、1978年にイギリスに亡命したソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の情報将校、ウラジーミル・ボグダーノヴィチ・レズン(亡命後のペンネームとしては“ヴィクトル・スヴォーロフ”の名を用い、この名の方で著名である)によってであり、レズンは当時としては機密の壁に阻まれて謎の多かったソビエトの軍事情報について西側に数多くの情報を提供した。民間に広く知られたのもスヴォーロフ名義の著書である『Aquarium』(英語版)(1985年刊)に記述されていたことがきっかけである。 『Aquarium』の記述によれば "He carries on his right calf a huge knife ... and on his left calf four spare blades. The Spetsnaz knife is no ordinary knife. It has a powerful spring in it so that when you remove the safety catch and press the release button the knife blade shoots out with a terrible hiss ... the blade can carry 25 meters. If It lands in a tree it is not always possible to pull it out" 「(スペツナズの)兵士は右ふくらはぎに大型のナイフを携行しており(中略)左ふくらはぎに4本の替刃を携行している。スペツナズの用いるナイフは通常のナイフではなく、強力なバネが内蔵されており、安全装置を解除してリリースボタンを押し込むと、刀身が大きな音を立てて射出される(中略)刀身は25メートル飛翔し、木に命中した場合なら簡単に抜くことができないほどに突き刺さる」 — Viktor Suvorov、"The Aquarium: The Making of A Top Soviet Spy" p.41 となっている。 しかし、ソビエト崩壊後の各種の情報公開や、閲覧が可能になった公的資料(機密文書を含め)といったものには一切この"スペツナズナイフ(弾道ナイフ)"は記載されておらず、軍制式の装備品であるならば必ず存在するはずの制式番号や統一番号といったものが発見されていない。また、「製造工場である」とされていた"Остблок"なる企業体についても実在していないことが確定している。ソビエト/ロシアの“スペツナズ”において武器としてナイフが用いられていないわけではないが、1940年代から実際に使われているものが何種類かが存在するものの、ソビエト軍制式戦闘用ナイフとして著名なNR-40を始めとして、いずれも特に刀身を飛翔させるような機能はない、一般的な戦闘用ナイフであるとのことである。 現在では“スペツナズもしくはKGBで使用されていた実物”とされているものも、旧東側圏を含む欧州の地下組織、もしくは犯罪組織が独自に製作した「暗器」であるとの見解が一般的で、レズン(スヴォーロフ)による情報もNRS ナイフ型消音拳銃を誤解していたものと推測されているが、日本を始めとして“スペツナズの特殊武器”としては現在でも有名で、フィクションには「スペツナズの特殊武器」もしくは「特殊部隊・情報組織の秘密武器」として頻繁に登場する。
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実在性について
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億計(仁賢天皇)・弘計(顕宗天皇)2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、津田左右吉はその史実性を疑い、実在しない架空の人物であるとした。 しかし梁書に大漢国の東2万余里にある扶桑国の永元元年(499年)時点の王の呼び名で諱とも考えられる「乙祁(オケ)」が記録されていること、宮内庁指定陵墓のボケ山古墳のボケも諱のオケに通じ、築造時期も6世紀初頭で矛盾しないこと、鏡の研究から考古学的に503年が有力となっている隅田八幡神社人物画像鏡に現れる曰十がオケ(億計/意居/意支)の略字とする説があることから実在性は高いとも考えられる。
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実在性について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:18 UTC 版)
記紀ともに、后妃なし、皇子女なし。とある。 在位期間は4年間しかなく年齢不詳。行政を行った記録は全く無い。 存在感の大変薄い天皇であるため、実在や即位を疑う説がある。
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実在性について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 17:27 UTC 版)
津田左右吉は億計・弘計2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、その史実性を疑い、実在しない架空の人物だと主張した。 現在でも実在を疑う説があるが、その原因は記紀の所伝の内容があまりにも現実的では無いことにある。 「顕宗天皇(ヲケ)、仁賢天皇(オケ)の父親(市辺押磐皇子)は権力争いで雄略天皇に殺された為、二人は播磨国に逃げて、馬、牛飼いの奴隷になって身を隠した。宴の席で、兄弟は舞を踊り、履中天皇の孫である事を謡の文句で示し、子供の居なかった清寧天皇はこれを受けて、宮廷に上らせ、自分の皇太子と皇子にする。」 天皇の孫だった人物が、逃亡中とは言え、牛や馬飼いの奴になったとは考えられず、舞の謡から初めて身分の貴種が明かされて、宮に上って天皇に即位する。というのもあまりにも劇的な展開である。これは生まれが貴い身分の人物が落胆の身になり、流浪の旅をして成長する貴種流離譚の典型的なものである。なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない。 近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた。兄弟が畿内周辺を彷徨し、聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、当時に溯る民俗的背景がほのみえ、両皇子発見譚に史実性を認めながらも、詳細には意見は割れている。 また平田篤胤は梁書に登場する扶桑国の国王乙祁(おけ)が、仁賢天皇の名億計(おけ)に通じること、在位年代もほぼ一致することから、乙祁は仁賢天皇であり扶桑国とは日本のことだと主張した。 また、両皇子発見譚が史実ではなかったとしても「史実でない物語・伝説が付加された」ということにすぎず、人物としての実在性や天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、億計・弘計の両天皇の実在を主張する意見も少なくない。
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