実在否定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 06:20 UTC 版)
輝時の事跡は典型的な貴種流離譚だが、より信頼性の高いと考えられる「豊島宮城文書」(豊島氏一族の宮城氏の文書類。ただし、系図は全面的に信頼できるものではない)にはその名は現れない。そもそも、中先代の乱の時点で時行は10歳程度(一説には3歳程度)の幼児であるとする説があり、この場合子をなすことはあり得ないと推測される。さらに、仮に正平8年/文和2年(1353年)の時行の死の直前に景村が輝時を引き取ったとしても最大限でも輝時は10歳程度であり、その10年後の貞治2年(1363年)に輝時の子の景則が足利基氏から感状を受けた、とするのは無理がある(輝時の推定15歳の時の子と仮定しても5歳にしかならない)。「豊島宮城系図」では、この感状を受けた「豊島修理亮」を泰宗としている。 いずれにせよ、北条時行の子が豊島氏の養子になったという輝時の事跡は江戸時代の家伝や寺伝にありがちな創作じみた話に過ぎないと推定する説がある。
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