創作・脚色
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忠臣蔵では有名な大石良雄とは旧知の友人であったとされてきた。大石は吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出し、来客が泊まるようなので討ち入りは延期したほうがよいという情報だったがこの日を討ち入り決行の日と定めた。また大石は狐との間に子があり、討ち入り後の養育を春満に託した。この狐の子を祀るのが東丸神社であるとなっている。 史実では春満は大石とは一面識もなく、名前もお互い知らなかった。事件当日に堀部金丸宅で大石良麿・良穀兄弟より吉良の茶会の参加者として春満の名を聞いたときが初耳だった。また東丸神社は1883年(明治16年)、春満に正四位が贈られたのを記念して社殿を造営、創祀されたもので元禄赤穂事件よりもはるか200年近くもあとの建立である。同社は「東丸大人(あずままろうし)」が祭神で伏見稲荷大社からは独立した全く別の宗教法人である。
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創作・脚色
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忠臣蔵では、脇屋新兵衛と変名した赤穂浪士の大高忠雄が宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、討ち入り日を決定するのである。山田宗徧は脇屋新兵衛の正体を知りながら赤穂浪士達の無念を思いやってわざと吉良邸茶会の日を教えたという設定になっている。 また、討ち入りに吉良邸に泊った宗徧も居合わせてしまい、茶器の名物「桂籠」を抱えて逃げ隠れる際に大高に襲撃され、その時の刀傷(隠れている処を突かれた為、槍傷だとする場合あり)が茶器に残ったという脚色もある。大高は「桂籠」を奪い潮田高教に持たせ泉岳寺に運び去る。 しかし、史実では山田宗徧に大高が入門したという事実も、宗徧が茶会の日程を教えた史料も存在しない。さらに宗徧は四十年も小笠原家に仕えており、しかも当日の正客は吉良と昵懇な小笠原長重である。一歩間違えば主君の命も危なかったわけで、さすれば「不忠臣」の名が末代まで残ってしまう。実際、小笠原は赤穂義士の全員斬首を主張している。まして小笠原家の茶頭や側近の地位にあった息子たちにも責任が及ぶような密告をするはずがない。宮澤誠一は、宗徧による日程の漏洩は大高に活躍の場を与えるための俗説として退けている。さらに「桂籠花入」の逸話も創作である。
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創作・脚色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:54 UTC 版)
大高忠雄が江戸に下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。忠雄は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに忠雄がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、忠雄を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。しかし、これらは後世の創作といわれている。神崎則休にも同様の逸話がある。 忠臣蔵では忠雄は俳人宝井其角とも交流があったとされ、討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、忠雄は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が挿入されている。明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた。大高「日の恩やたちまち砕く厚氷」に、其角「月雪の中や命の捨てどころ」としている創作もある。しかし史実では、大高が江戸で其角に近づいたり、教えを受けた事実はなく、両国橋での話も実話ではない。それを裏付ける史料もなく後世のフィクションである。大高は歌人や連歌師ではなく、付句の流れが作法と合致せず不自然である。中央義士会も「大高源五と宝井其角とのエピソードは後世に作られた話である」としている。 同じく忠臣蔵では、大高は俳人としての縁から吉良家出入りの茶人・山田宗徧に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめたり、吉良邸から、茶器の名物「桂籠」を盗んで、潮田高教に泉岳寺まで運ばせたというような逸話がある。また吉良邸に宿泊して討ち入りに遭遇してしまった宗徧が、「桂籠」を抱えて逃げ惑う処を大高が襲撃し、茶器に刀傷(もしくは隠れてる処を突いた槍傷)が残ったという脚色もある。実際には山田宗徧に大高が入門したという事実も、宗徧が茶会の日程を教えた史料も存在しない。宮澤誠一は、宗徧による日程の漏洩は大高に活躍の場を与えるための俗説として退けている。さらに「桂籠花入」の逸話も創作である。
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創作・脚色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:16 UTC 版)
忠臣蔵などの創作では、吉良義央に鰹節一本だけを贈って呆れられる吝嗇で無能な家老として描かれる場合が多い。「かつお武士道」と皮肉を言われるのは脚色に過ぎない。 史実でも浅野長矩の切腹後に、赤穂藩邸が町人や浪人に襲われている事などから、江戸での評判は芳しくなかったと思われる。
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創作・脚色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 02:20 UTC 版)
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では、桃井若狭之助(亀井茲親)が高師直のいじめを受け刃傷に及ぼうとしたが、加古川本蔵(多胡真蔭)という「年も五十の分別盛り」の家老が師直に賄賂を贈り、待遇が良くなるという内容になっている。 『吉賀記』(成立年代:1800年〜1810年)と成立年代の近しい大田南畝著『半日閑話』(成立年代:1787年 - 1822年)では、元禄期の津和野藩亀井家の3代目藩主であった亀井茲親が勅使の接待役を任せられた。茲親は作法指南役の高家の吉良義央に教えを請うが、吉良は接待の方法を教えなかっただけでなく、逆に愚弄したため、癇癪持ちの茲親は吉良を斬ろうと決意する。そこへ藩の家老であった多胡真蔭がこれを知って、500両の小判をカステラの様な平たい生地に包んで吉良に進上して機嫌を取り、吉良から茲親にたいして勅使の接待の方法を伝授させ、事なきを得たとある。 しかし、両書とも『仮名手本忠臣蔵』(1748年初上演)よりかなり後に書かれたものであり、真蔭は正保3年(1644年)に家老になっておりこれが元服後の十代後半だとしても、赤穂事件の頃には相当の高齢であり、貞享3年(1686年)以降は既に家老ではない。また両書では「多古主水」と記されている。さらに500両はとても菓子折りに入れて運べる嵩と重量ではない。
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創作・脚色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 04:00 UTC 版)
芝居の忠臣蔵などでは、元禄11年(1698年)に柳原資廉、正親町実豊両勅使の饗応役を命じられた際に、高家吉良義央から陰湿ないじめを受けたといわれ、いよいよ堪忍できなくなった茲親が殿中刃傷に及びそうになったところを、家老の多胡真蔭が練った小麦粉を薄く焼いた生地で小判500両を巻いた「菓子」と称して吉良に賄賂を送って茲親をいじめないようにと手回しし、事なきを得たといわれる。 津和野藩の亀井家文書には当該の記録はない。さらに、薄い生地で餡をまく「あんまき」は三河の名物であり、本場の菓子を食べなれた旗本に地方大名が贈るのは逆効果である。加えて、500両はとても菓子折りに入れて運べる嵩と重量ではない。また、真蔭は吉良が3歳の時には既に家老になっており、貞享3年(1686年)以降は老齢でもう家老ではない。決定的な誤りが「源氏巻」の誕生は元禄の亀井茲親の時ではなく、はるか後代の江戸末期、亀井茲監の治世においてである。
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