大石無人
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大石無人(おおいし むじん、おおいし むにん[1]、 寛永4年(1627年) - 正徳2年5月5日(1712年6月8日))は、江戸時代前期の武士。名は良総(よしふさ)または信安[2]。他の通称に五左衛門(ござえもん)。大石良雄は無人のいとこ孫、赤穂義士大石信清と討ち入り不参加の大石信興兄弟は無人の甥にあたる。
- ^ 大佛次郎「赤穂浪士」では「むにん」とルビが振られている。
- ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)
- ^ 本田伸「元禄赤穂事件の周辺」(『東京と青森』2021年4月号)
- ^ 「大石瀬左衛門書状」五十二
- ^ 『山鹿語類』には「主のために命を棄つるは愚かなり」「諫めても改めぬ主君なら臣より去るべし」と「士は二君に仕える」を肯定する箇所があり、素行自身も実践している。(『山鹿語類』「臣道」より君臣論)
- ^ 同じく『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあり、無許可のうえ火事と偽り闇討ちした赤穂事件とは対極に位置する。(『山鹿語類』「臣道」より報仇論)
- ^ 津軽藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕や山鹿政実らの弘前藩士は、事件直後に真っ先に吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者を救出したと伝わる。松浦静山『甲子夜話』にも類似の記述あり
- ^ 『大石家系圖正纂』「大石良總傳」(柿崎輝彦、2021)
- ^ 『地方別日本の名族 一 東北編I』「津軽氏」(1989年 新人物往来社)
- ^ 表書記・貴田孫太夫筆録『津軽年代通記』
- ^ 重臣の乳井貢が元禄赤穂事件を激しく批判する著作を発表したり、赤穂浪士に同情した滝川統伴(主水)を宝永5年(1708年)に閉門、知行(1000石)没収の厳罰に処し、供養塔の破却を命じたりしている(津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
- ^ 大石良雄の遺児・大三郎が仕えた赤穂藩の宗家である広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は講学所への出入りが禁じられた。)
- ^ 『大石家系図正纂』には山鹿校尉(津軽正方)や佐藤帯刀ら、弘前藩の山鹿系重臣の悪口「奸佞邪曲ノ者」などと書かれている。
- ^ 『中央義士会報』第73号10p
- ^ 新歌舞伎「元禄忠臣蔵」(真山青果、1934)
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