縁起の考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:18 UTC 版)
比叡山等での12年間にわたる修行を了えて故郷の清澄寺(千葉県鴨川市)に帰参した日蓮は、法華経を最高の法として説くとともに、同地でも隆盛を極めていた念仏(殊に、法然による専修念仏)を批判した。法華経自体は天台宗の根本経典であり、清澄寺の僧侶には天台大師智顗や伝教大師最澄以来の天台宗の伝統に沿う日蓮の主張に共鳴する者も少なからずあったが、純粋に教義上の問題ばかりではなく、清澄寺内部の主導権争いに発展するとともに、同地域の荘園の支配権を巡る地頭東条景信との緊張状態など複雑な政治的要素もあいまって、日蓮は清澄寺から退出することを余儀なくされた。 その後、鎌倉に赴くまでの間に参籠した笠森寺(笠森観音)(千葉県長生郡長南町)において、観音菩薩のお告げを受けて迎えにやって来た隅田五郎時光(高橋五郎時光ともされる)と初めて対面して信者とし、そのことが後に常楽山妙光寺(現在の常在山藻原寺)・庭谷山妙福寺(現在の庭谷山妙源寺=藻原寺旧末)(いずれも千葉県茂原市)の創建に繋がったとの伝承も、妙顕寺の縁起とは全く別の所で伝わっている。 この茂原地域の伝承にせよ、妙顕寺の縁起にせよ、神社仏閣の縁起は多分にして創作・脚色が散見されるため、それらをそのまま歴史上の事実として受け止めることは難しいが、しかし、そのような伝承や縁起を成立ならしめた何らかの素地があったことまでは否定できない。いずれにせよ、当時、一定の勢力を有する武士が日蓮やその一門の後援者となって当地での教線拡大に一役買ったという事実があり、それが子安伝承として脚色を加えて語り継がれたものと解することができる。第一には、妙顕寺と藻原寺とで縁起のストーリーや登場人物に一部重複や類似する点が看取できるのは、両寺が共に身延山久遠寺第二世日向を祖とする身延門流(日向門流)の流れを汲むこと、第二として、当地における地理的視野を広げてみた場合、現在の東京都練馬区東大泉を水源にして、和光市南部を経て板橋区三園で新河岸川に合流する白子川の流域に日蓮宗寺院が点在しているなどの地政的要素に注目する必要もあろう。 なお、東京都板橋区には徳丸という地名があり、これは、時光の嫡男徳丸(後の妙顕寺第三世日堅)の領地とされた地域であることに因んだものとされる。また、そこから至近の大門地区には妙典寺の檀家である須田家が存在しており、時光の末裔と伝えられている。ただ、「沙弥日徳」なる人物が日蓮から曼荼羅を授与されたのは事実であるが、隅田時光なる人物が実在したのか、時光と日徳とが同一人物であるか否かについては、確たる史料に裏付けられたものではなく、伝説・伝承の域を脱するものではない。
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