縁起と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 06:42 UTC 版)
聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)大国主大神の信託により大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)に奉斎したという、その際、道慈によって、その法楽所として傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。 大同年間(806年 – 810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、またこの頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み、空海は境内の玉ノ井(現存しない)の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉のような男子を無事出産した。これにちなみ、寺名を宝寿寺に改め、本尊は安産の観音として信仰を集めるようになった。 1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国攻めで荒廃した。1636年(寛永13年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。この際に本尊と同じく安産の仏として在家信者より奉納された布袋尊像が現在も本堂に合祀されており、四国(東予)七福神霊場の本尊となっている。その後の1679年(延宝7年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。その後に残っている納経帳によると、納経は本尊名ではなく「伊豫國一宮大明神 別當寶壽寺」と書かれていた。 明治初期の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって1877年(明治10年)に神社の南隣に移し再興され、1921年(大正10年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。
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