新居系ヴァイタスコープ
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「ヴァイタスコープ」の記事における「新居系ヴァイタスコープ」の解説
東京京橋の貿易商である新居商会は、荒木とは別の経路でヴァイタスコープを日本に輸入した。新居商会社員の柴田忠次郎は、1893年のシカゴ万国博覧会で日本式庭園を出品するために渡米し、その後もアメリカ各地で同様の催しをしていたが、1896年に友人の勧めでヴァイタスコープの上映を見ると、それを日本に輸入して上映しようと思い立ち、直ちに装置と16本のフィルムを3500円で購入した。しかし、代金が不足したため残額を日本で支払うことになり、それを取り立てる付き馬としてアメリカ人の映写技師ダニエル・クロースが日本に同行することになった。1896年末に柴田とクロースは、装置とフィルムを携えて日本に到着した。新居商会もヴァイタスコープで使う電気の確保に苦労したが、三吉電機工場の直流ダイナモと十文字商会の石油発動機を使用し、自家発電を起すことで問題を解決した。なお、十文字商会の経営者である十文字大元は、演説が上手くて英語力も堪能だったことから、新居系ヴァイタスコープ興行での口上役を務めることになった。 ヴァイタスコープの試写会は、1897年2月27日に歌舞伎座で行われた。十文字によると、1897年1月に新居商会の会社内で試験的映写を行い、これが成功したため大々的に公開することを考えていたところ、英照皇太后の崩御で1ヶ月間歌舞音曲が禁止され、時期をうかがっていたときに、福地源一郎の紹介で歌舞伎座での上映が実現したという。試写会は折柄公演中だった『積恋雪関扉』の終演後の午後7時に始まり、まず口上役である十文字が上映作品や装置の構造、映写方法などについて1時間かけて説明し、その後にヴァイタスコープで数本のフィルムを2、3回ずつ繰り返して上映した。出席者には名士や新聞記者などがいたが、その中には舞台を終えたばかりの九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、十二代目守田勘彌もおり、上映を見た勘彌は菊五郎に「これはやがて芝居を蹴るような恐ろしい強敵になるぞ」と囁いたという。試写会は成功を収め、気を良くした新居商会は3月1日から歌舞伎座で一般上映を始めようとしたが、舶来物を嫌う團十郎が「どうしてもやるというなら舞台を鉋で削り直しておけ」と激怒したため中止したという。 そこで新居商会は神田錦町にある貸席の錦輝館に会場を変更し、1897年3月6日から22日まで「活動大写真」の名称で一般上映を行った。興行は毎日午後1時と午後7時の2回行われ、『メアリー女王の処刑』『ナイヤガラ瀑布』『群鳩飼養の図』『新約克火事場の景』『李鴻章ウヲルドルフ旅館を去るの図』『蝶々踊』などの作品が上映された。口上は十文字とクロースが担当し、クロースが英語で何かを話したあと、それを通訳するような形で十文字が話すという順序で説明が行われた。宣伝を受け持っていた広目屋の店員の駒田好洋によると、上映中は広目屋が派遣した楽隊による伴奏音楽が演奏されたという。 錦輝館での興行が終了した翌日の3月23日には、同会場で職工徒弟学校演芸会の催しのひとつとして上映された。3月27日から4月5日までは歌舞伎座で子供芝居の余興に上映されたが、映画史家の田中純一郎によると、この時には團十郎もヴァイタスコープの上映に文句を言わなかったという。4月14日から30日までは浅草座で上映したが、その間の4月26日は興行を休み、赤坂離宮で皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の上覧を受けた。さらに5月1日に本郷中央会堂の慈善演芸会、5月4日から13日まで再び錦輝館、5月21日から横浜の蔦座(楽日は不明)で上映した。その後、新居商会はヴァイタスコープを広目屋に譲渡し、映画興行から身を引いた。広目屋に興行を任された駒田好洋は、6月15日の静岡の若竹座を皮切りに全国各地を巡業したが、その際に活動弁士としても活躍し、「頗る非常」のフレーズを多用した芸風で知られた。
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