吉沢系シネマトグラフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:31 UTC 版)
「シネマトグラフ」の記事における「吉沢系シネマトグラフ」の解説
東京の幻灯機器会社だった吉沢商店は、1897年2月に元東京砲兵工廠技師だったイタリア人のジョヴァンニ・ブラッチャリーニが持ち込んだシネマトグラフを入手した。ブラッチャリーニはフランスを訪れた際にシネマトグラフを購入して日本に持ち帰ったが、装置の使い方が分からなかったため吉沢商店に持ち込んで売ったという。しかし、2010年代以降の研究では、吉沢系シネマトグラフがリュミエールの正規品ではなく、他社製の模造品である可能性が高いという見方がある。長谷によると、当時の欧米でシネマトグラフと名の付く商品が多く出回っていたことや、シネマトグラフに撮影機能があるにもかかわらず吉沢商店が映画撮影をしていないことから、吉沢系シネマトグラフは他社製品である可能性が高いという。映画史研究者の入江良郎も、吉沢商店社主の河浦謙一がシネマトグラフには存在しない機構について言及していることから、吉沢系シネマトグラフがリュミエール社製シネマトグラフではない可能性があると指摘している。 吉沢商店も最初の上映を行うために錦輝館を会場に選んだが、既に新居系ヴァイタスコープに先約されていて、それと競合するのを避けるため、新居商会と上映会場を意図的に離す申し合わせを事前に行った。その結果、新居系ヴァイタスコープは錦輝館、吉沢系シネマトグラフは横浜の港座で上映することになった。上映日は共に3月6日からを予定していたが、吉沢商店は支度に手間がかかり、3日遅れて3月9日から開始することになった。港座での上映は「活動大写真」の名称で、毎日夜に1回のみ行われたが、連日大入り満員の盛況を呼んだため、やがて毎夜2回の上映に変更された。映画説明は横浜の水道局職員だった中川慶二が務めた。中川は観客として港座に連日通っていたが、性来の雄弁を認められて映画説明を受け持つことになり、昼は水道局で仕事をしつつ、夜は港座で映画説明をしていた。 港座に次いでは、横浜山手のパブリックホールで外国人向けに上映を行ったが、その上映日程は不明である。次いで3月26日から4月11日までは錦輝館で上映した。ここでの上映は「着色活動大写真」と称し、吉沢商店の幻灯技術を応用してフィルムの一部に手彩色を施した着色映画が上映された。また、吉沢商店はこの上映で初めて映写光源に酸素ガスを使用した。それまでの競合相手を含む映画上映では電気を使っていたが、電燈会社で昼の送電はなかったため夜間しか上映できなかった。しかし、酸素ガスを使用したことで昼間の上映が可能になり、さらに上映会場の制約からも解放され、まだ充分に電気が普及していない地方での映画興行もできるようになった。田中は、酸素ガスにより「映画の普及があらゆる山間僻地にまで達成されたことは、測り知れるものがあった」と述べている。錦輝館での上映でも中川が映画説明を担当したが、上映が昼夜2回行われたため、職場に病気届を出して出演していたところ、上司に知られて論旨免職となり、その後は専業の活動弁士となった。 さらに吉沢系シネマトグラフは、4月13日から19日まで赤坂の演技座で上映した。4月22日には八王子の関谷座で上映を始めようとしたが、初日に八王子大火に遭遇し中止を余儀なくされた。4月25日から5月1日までは深川座で昼夜2回上映した。確認できる吉沢系シネマトグラフの上映記録は以上になるが、その後も吉沢商店は映画事業を継続し、中川慶二が率いる活動写真巡業隊を組織して地方を回り、やがては映画製作や国産映写機の製造販売、さらには日本初の常設映画館と映画撮影所を開設するなど事業を展開し、日本初の本格的な映画会社となった。
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