柴田忠次郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 柴田忠次郎の意味・解説 

柴田忠次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 01:42 UTC 版)

柴田忠次郎
生誕 1864年1月16日
日本愛知県豊田市
死没 1909年9月27日
アメリカ合衆国シカゴ
墓地 Oak Woods Cemetery, Chicago, Illinois
職業
  • 貿易商
配偶者 柴田タマ
家族 柴田順平(父)、渡辺はま子(孫)
テンプレートを表示

柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 - 1909年9月27日)は、明治時代貿易商。日本における活動写真(映画)の導入に貢献した人物である。

経歴

愛知県豊田市出身[1]。父は内藤藩の郡奉行を務めた柴田順平。弟に柴田鏡三郎。

東京・京橋の貿易商、新居商会に勤め、興行師の櫛引弓人や新居三郎と関わりを持つ。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会日本庭園を出品するため渡米。その後もアメリカ各地の催しに参加した。

1896年(明治29年)、友人の勧めで「ヴァイタスコープ」の上映を観賞。日本での上映を思い立ち、直ちに映写装置と16本のフィルムを3,500円で購入したが、代金が不足していたため、残額を日本で支払うこととなった。これに伴い、代金の取り立て役としてアメリカ人映写技師のダニエル・クロースが同行することとなり、同年末に装置とフィルムを携えて日本に帰国した[2]

翌1897年(明治30年)、東京・神田錦輝館にて昼夜2回の活動写真興行を実施し[注釈 1]、成功を収める。その後、活動写真事業を大阪の秋田柳吉に譲渡し、再びアメリカへ渡った。

1904年(明治37年)のセントルイス万国博覧会では、日本人村の入り口近くで櫛引、新居とともにレストランを経営。その後は独立しシカゴに拠点を移し、レストランを複数経営していた。

1909年(明治42年)9月27日、アメリカ・シカゴにて死去。享年46歳。シカゴのオーク・ウッズ墓地(英語: Oak Woods Cemeteryに墓がある[3]。孫で歌手の渡辺はま子が慰霊のため、シカゴを訪れた際に、墓を立て直している[4]

脚注

注釈

  1. ^ 錦輝館での初上映は1897年(明治30年)3月6日に行われた。これは東京における最初の映画興行である。

出典

  1. ^ 伊藤 1986, p. 130.
  2. ^ 吉山 1933, p. 246.
  3. ^ Find a GRAVE - Harry C. Shibata”. 2025年2月27日閲覧。
  4. ^ 伊藤 1986, p. 132.

参考文献

  • 伊藤一男『シカゴ日系百年史』PMC出版株式会社、1986年4月25日。 
  • 吉山旭光『日本映画界事物起源』シネマと演芸社、1933年。 
  • 洋々社編刊『日米交渉百年史』1956年。
  • 梶山家文書『最大最新の発明機械 活動写真の説明』1789年。
  • Who Taught the Word skebe to Americans?” (英語). Discover Nikkei. JAPANESE AMERICAN NATIONAL MUSEUM. 2021年10月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月27日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  柴田忠次郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「柴田忠次郎」の関連用語

柴田忠次郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



柴田忠次郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの柴田忠次郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS