福祉事業家として
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キリスト教徒であった彼は、1930年浜松市にひとりの結核患者のための病舎を建てた。のちにこの病舎はベテルホーム(ベテルはヘブライ語。旧約聖書に出る地名で「神の家」の意)と名づけられる。長谷川らの活動に対しては、多くの献金や寄附が集まるなど、賛同する者も多かった。しかし、結核に対する忌避感から周辺住民らの反対運動も根強く、医療施設の経営は困窮していた。そのような状況の中、昭和天皇より特別御下賜金が与えられ、経営危機を脱した。 1942年、聖隷保養農園が財団法人として認可され、常務理事に就任した。聖隷保養農園付属病院開設(聖隷三方原病院の前身)。1952年、聖隷保養農園は社会福祉法人として聖隷保養園に改組され、理事長に就任した。1961年、日本で初めての特別養護老人ホーム「浜松十字の園」を開設した。聖隷保養園は1973年に聖隷福祉事業団となるが、以降も引き続き理事長を務め、1980年に退任し会長に就任した。1982年、日本で初めてがん末期患者などのための「ホスピス(緩和ケア病棟)」を開設など病院・福祉施設の拡充につとめる一方、各種学校遠州キリスト学園を始めとする各種医療関係学校を経営し、福祉・医療教育にも力を注ぎ、日本で最大級の社会福祉法人である聖隷福祉事業団をはじめとする聖隷グループの礎を築く。
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福祉事業家として
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1968年、肢体不自由児(身体障害者)・孤児・拒食症(精神疾患者)などの救済・支援を行う日本初の民間(私立)社会福祉施設であるねむの木学園(入所者は10歳~70歳、職員数2人~最大180人)を1人だけで様々な苦労の末に3年かけて設立した(日本のマザー・テレサ)。この頃より、タレント活動は事実上引退状態となった。1973年、吉川英治文化賞を受賞した。 1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。1976年には、『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章とともに出演した。1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作した。1979年、ねむの木養護学校を設立した。1975年と1981年に実施された近畿放送(KBS京都)のテレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えた。これらが評価され、1979年に総理大臣表彰された。また、身体障害者に対する手描き友禅、合唱の指導なども行っている。なお、ねむの木学園設立時のエピソードは、1981年12月22日にテレビ朝日「ハウスこども劇場」枠において、『小さなラブレター まり子とねむの木の子供たち』としてアニメ化された。 芥川賞作家・吉行淳之介(妹は女優・吉行和子)と交際し、彼の死まで事実婚(内縁の妻)(都内の互いの自宅で同居)の関係であった。また、同じく作家室生犀星にも可愛がられていた。犀星の見舞いにクリスタルカップを贈ったが、森茉莉に取られてしまった。(犀星のエッセイより) 2007年3月、日本経済新聞『私の履歴書』に自伝を執筆した。 2011年1月、自宅で転倒し腰椎を骨折して入院。 2011年2月、ねむの木学園元職員と音楽家の朝比奈圭の2人が宮城まり子の銀行口座から現金約3100万円をだまし取ったとして、詐欺罪で逮捕された。朝比奈らは起訴され、9月、東京地裁(裁判所)からそれぞれ懲役2年、懲役4年6月の有罪判決を受けた。ねむの木学園や宮城まり子の個人口座から計約5億円が引き出された(盗まれた)という。2012年2月16日、東京高裁は一審判決を破棄して罪を軽くし、朝比奈圭に懲役4年の有罪判決を言い渡した(ねむの木学園元職員は実刑確定)。 2012年、瑞宝小綬章を受章した。同年11月、銀座ヤマハホールでシャンソンを歌い、歌手活動を30年ぶりに再開した。 2020年3月21日午前6時55分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。93歳没。生没同日だった。同年5月26日、従五位に叙された。
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