1898年の橋とは? わかりやすく解説

1898年の橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 21:11 UTC 版)

荒川橋」の記事における「1898年の橋」の解説

初代荒川橋は、旧中川村流れ荒川の、現在の荒川橋下流側川幅が最も狭くなっている地点に、「県道秩父甲府線」の橋梁としてけられていた。 大滝村白川村中川村三村協議により「大宮大滝間道組合」を発足して新道建設企画立て埼玉県援助のもと1890年明治23年6月荒川木橋架設する工事着手した荒川越え大橋完成なくては新道建設の意味がなく、その完成新道開通において大きな課題であった工事当時はまだ架橋技術未発達で、荒川川幅狭隘な場所であるがゆえの急峻な地形相まって失敗苦難の連続であった1892年明治25年9月完成半ばまで工事進捗したが、暴風雨見舞われ足場と共に流失してしまった。工事振り出し戻ってしまったが、道路組合関係者屈することなく再び架設工事着手した。しかし1896年明治29年1月二度目工事竣工目前までこぎつけたが突然、今度突風見舞われ谷底墜落し架橋工事従事していた作業員多数死傷する惨事となるなど架橋工事難航極めることとなり、道路組合関係者による架橋工事挫折した。そこで県はその完成を急ぐため、1897年明治30年)に新道開通待たずにこの計画道路を「大宮大滝道」として仮定県道編入し当時としては新式である構橋トラス橋)を導入して県主導のもと工事再開し1898年明治31年)、現在の荒川橋の約100 m下流側位置78 m、幅員3.6 m、高さ33.3 m(11丈)の初代秩父橋親鼻橋似た上路式の木混合プラットトラス架橋実現し新道開通した。これにより渡船依存していた奥秩父交通近代化遂げ面目一新したまた、この開通の影響交通流れ変わり贄川始めとした新道沿線日を追って活況を呈するようになり、其れとは対照的に従来街道筋である白久衰退が目立つようになり、宿屋や店が次々と廃業追い込まれるなど、困窮事態に陥ってしまった。この十数回の補修行いながら新しけられるまでの約30年間使続け2代目である旧荒川橋の開通後役目終えて廃止となり撤去された。遺構痕跡残されていない

※この「1898年の橋」の解説は、「荒川橋」の解説の一部です。
「1898年の橋」を含む「荒川橋」の記事については、「荒川橋」の概要を参照ください。

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