1898年の選挙と暴動
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「ウィルミントン暴動」の記事における「1898年の選挙と暴動」の解説
1898年11月8日の選挙では、黒人や共和党員の多くが投票を避けたこともあり、民主党が州の支配を取り戻した。ワッデルらが率いる25人委員会は、アフリカ系アメリカ人社会の政治家と指導者の集団である有色市民委員会に対し、マンリーの「問題」に対して1898年11月10日朝7時半までに報告書を提出するよう指示した。しかし期日までに報告書が提出されなかったため、ワッデルは白人実業家と元南軍兵士の一団をウィルミントンの軽歩兵武器庫に集めた。この集団は民主党を再建する計画を立てている白人至上主義者だった。午前8時までにワッデルが彼等を「デイリー・レコード」社に誘導し、全てを破壊し建物を燃やし尽くした。 民主党を中心とする白人がウィルミントンの支配を取り戻す動きの中で、民主党にとっての次の目標は、州内で唯一の黒人が所有する新聞であるウィルミントンの「デイリー・レコード」紙の編集者アレクサンダー・マンリーを市内から追放し、発行を停めさせることだった。 この時までにマンリーやその他多くの黒人がウィルミントン中心部から逃げ出し、安全地帯に避難するか隠れていた。一日が終わるまで、ウィルミントン中で暴動や発砲が続き、黒人居住地にいた黒人も襲撃され続けた。死者の推計値は60人から300人まで幅があった。病院、教会および検察医事務所の記録が不完全だったために、正確な数字はほとんど分かっていないままである。 ワッデルと暴徒は続いて共和党の市長サイラス・P・ライトや他の市政府の役人(黒人も白人も)を辞任させた(1899年まで再選挙に出られなかった)。新しい市政委員会が選出され、ワッデルがその日の午後4時までに市長として市政を掌握した。 この権力強奪に続き、民主党はノースカロライナ州の中では初めて、人種差別的内容を含む法案であるジム・クロウ法を成立させた。民主党はノースカロライナ州でアフリカ系アメリカ人に対する戒厳令を布き、少なくとも50年間は州境を越えて適用させることになる制度を固めた。南北戦争の後で黒人が確保していた権利の多くは法典から消えた。アフリカ系アメリカ人がその公民権を取り戻すのは数世代後のアフリカ系アメリカ人公民権運動を待つことになった。また2000名以上の黒人が事業と財産を放棄してウィルミントンを去り、市民の過半数は白人になった。 なお、このきっかけを作ったヒュー・マクリーはウィルミントン郊外のニューハノーバー郡に公園用の土地を寄付し、そこは今でもマクリーの名前を冠している。公園にあるマクリーの栄誉を称える銘板には1898年暴動でのその役割について言及が無い。
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