全面的集団化と富農(クラーク)絶滅政策
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「ソビエト連邦における農業集団化」の記事における「全面的集団化と富農(クラーク)絶滅政策」の解説
「クラーク撲滅運動」も参照 1927年の穀物調達難に対する非常措置として、1928年1月6日の党中央委員会指令を受けて、党幹部らは各地を視察し、穀物調達を促進した。これは1918年の食料独裁令と同様の、農民に穀物を供出させる方式で、共産党はこの穀物供出にあたって軍事的命令の形式で命じるようにし、不履行の場合は威嚇も用いた。スターリンはみずからシベリアにいって直接これを実施した。現地でスターリンは穀物の調達難の原因を「クラーク(富農)」という「階級上の敵」による売り惜しみにあると決めつけ、逮捕したり、市場の閉鎖、現地指導部の頻繁な更迭などが行われるようになった。こうして、1919年の割り当て徴発制度のような、農村共同体の連帯責任を重視した徴収方式、「ウラル・シベリア方式」が用いられるようになった。しかし、農民は政府への不信感を強め、播種面積を縮小しはじめた。 1928年7月、ブハーリンらは非常措置の即時撤廃を求め、スターリンと対立した。 1929年以降は、ウラル=シベリア方式という、農村共同体の決定を尊重して穀物調達と集団化の促進がはかられた。これは1928年の非常措置が不評であったからで、上からの強制ではなく、自発的なものという体裁を強調したものであった。しかし、実際には、農村に「全権代表」が派遣され、集会も意思決定も威嚇にもとづく強制的なものだった。1929年6月18日のロシア共和国法令ではウラル=シベリア方式が穀物調達と位置づけられ、また農業集団化の方式としても採用され、村ぐるみの集団化が促進された。こうした「全面的集団化」が1929年夏以降、各地で展開した。 しかし、「全面的集団化」方式において、クラークの処遇が問題となった。クラークを集団農場に入れれば、かれらは経営能力、読み書き能力などで農場を牛耳ることが危惧された。他方、クラークをコルホーズに加入させないなら、コルホーズの近くに豊かな個人経営農場が存在することになるおそれがある。 こうした危惧に対してスターリンは1929年11月7日の論文「偉大な転換の年」と続く総会において、全農民はいまやコルホーズに入りつつあると全面的集団化を確認するとともに、穀物の調達難の原因であるクラークは「最悪の敵」であり、彼らをコルホーズに入れることはできないとした。さらに、スターリンは1929年12月27日の演説で、農業集団化を加速させるために「富農(クラーク)をひとつの階級として絶滅する」と宣言した。 こうして、スターリン政権は、農民の生産意欲を減退させることを避けるために、集団農場コルホーズを設営し、農民をそこへ編入させる政策を実行していった。 1930年1月5日の党中央委員会では、ヴォルガ下流・中流、北カフカースなどの穀倉地帯での集団化を1930年秋まで、それ以外の地帯では1931年秋までに集団化を完了することが求められた。 1930年1月30日に政治局は、クラークの処遇を次のように決定した。 1)反革命活動に従事したクラークは強制収容所に送る、または死刑 2)それほどではないが反抗的なクラークは極北、シベリアに送る 3)ソヴィエト権力に従順なクラークは地区内追放
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