オーストリア=ハンガリー国家鉄道
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「東部線ラー支線」の記事における「オーストリア=ハンガリー国家鉄道」の解説
1855年帝国特認国家鉄道が分離された三つの鉄道網を引き受けた時に、その鉄道網は皇帝フェルディナント北部鉄道(Kaiser Ferdinands-Nordbahn, KFNB)の路線と互いに連結されていた。ウィーンとプラハの間には輸送量が増加したものの、それは合議とおりの列車運行を巡って、KFNBとの紛争を招いた。その状況で国家鉄道はウィーン - ブリュン区間で別の鉄道を建設するのを計画した。1859年11月18日に国家鉄道はウィーン - マルヒェク区間及びウィーン - ブリュン区間の鉄道建設許可を申し込んで、数年間法的な紛争がKFNBと発生した。1866年のプロイセン=オーストリア戦争のため、その葛藤状況は終了した。オーストリア政府は特にボラヴィアの人々に仕事を提供するために、大規模な建設プロジェクトを実行した。1866年12月1日に国家鉄道はウィーン - ブリュン区間の新線に関する建設および運営許可を獲得した。有効期間は1867年1月1日より99年間であった。 建設工事は1867年の変わり目にシュトレリッツとシュタドラウでそれぞれ開始された。皇帝フェルディナント鉄道の場合とは異なって、国家鉄道の区間では多い曲線区間と山地区間が不可避であった。ドナウ河鉄道橋は費用の理由で最初には木材トラス構造で建設された。鋼製トラス構造で置き換えられた鉄道橋は、四つの橋脚と75 mの支間で構成されて、浸水防止用度の橋が九つの橋脚の構造で続いた。橋梁やトンネルなどの構造物の高い建設費のため、費用節減は他の道床の場合に不可避であった。1870年11月24日、この路線はラー - グルースバッハ(フルショヴァニ・ナド・イェヴィショヴコウ)区間とともに開業された。本来ならこの路線は複線鉄道として計画されたが、ウィーン - ゲーラスドルフ区間のみに複線で、残りの区間は複線道床の上の単線で建設された。ラー線は現在の区間を含めて、クルースバッハ、クローマウ(モラフスキー・クルムロフ)を経由しブルノまで至る路線であった。 1872年のオーストリア北西鉄道の開通以来ボーデンバッハ方面の交通量は分散された。何よりも国家鉄道の相当量の貨物輸送量はハンガリーから北ドイツやスカンディナヴィア半島方面で減少した。 ラー線は1909年国家鉄道の他の路線と同じくオーストリア帝国鉄道に引き受けられた。1912年の時刻表によれば、ウィーン - プラハ区間の特急列車は1日中2編のみであった。ウィーン - ブリュッセル区間の場合、4編の旅客列車はあったが、所要時間が北部鉄道経由の場合より長かった。1913年10月20日には列車通行の非効率を改善するために「ウィーン - ブリュン間高速電気鉄道」の実行委員会がヨハン・マイアー(Johann Mayer, 1858-1941)議員の代表で発足した。第一次大戦の終戦とオーストリア=ハンガリー帝国の解体後、84.1 km以北の区間はチェコスロバキアに属して、ヘブリーン - ブルノ区間はチェコスロバキア国鉄により運営されることとなった。
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