オーストリア=ハンガリーによるボスニア占領
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「ベルリン条約 (1878年)」の記事における「オーストリア=ハンガリーによるボスニア占領」の解説
サン・ステファノ条約では自治権が付与されることになっていたボスニアとヘルツェゴヴィナは、オーストリア=ハンガリー帝国が占領することとなった。これは露土戦争時のオーストリアとロシアの間の密約に基づくもので、ロシアはオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領するのを容認し、引き替えにオーストリアは中立を維持するというものであった。最終的にはオスマン帝国の名目上の主権は残されたが、現実にはオーストリアが施政権を行使するという体制が1908年まで続いた(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)。 また、セルビアとモンテネグロの間にあるオスマン帝国のノヴィ・パザール県(別名サンジャク地方)にオーストリア・ハンガリーが軍を駐屯させる権利が認められた。
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